2009年11月05日

医者として成功する法則

市瀬 史
ハーバード大学医学部アソシエイト・プロフェッサー/
マサチューセッツ総合病院麻酔集中治療科・麻酔医)


 マルコム・グラッドウェル(Malcolm Gladwell)という米国の社会心理学者・作家が書いた『Outliers :The Story of Success』という本がアメリカでベストセラーになっています。邦訳版の『天才! 成功する人々の法則』(勝間和代訳、講談社)も最近出版されたようですから、お読みになった方もいらっしゃると思います。 同書でいうアウトライヤーとは、統計的に一般人や一般の現象から遠くかけ離れた(成果を残した)人や現象を指します。スポーツ選手やIT企業経営者や弁護士として、ずば抜けて成功した人たちの事例に共通する背景とは何か、IQが非常に高いいわゆる“天才”が必ずしも成功しない理由とは、また短期間に飛行機墜落事故を多発させた航空会社に共通する“文化的背景”とは――などなど、極めて興味深い内容かつ非常に読みやすい作品です。

 “天才の作り方”をテーマにした本が最近よく売れているようですが、本書はある意味でそのアンチテーゼのような内容になっています。いわく、大成功する人たちは、ある特定の時代的・状況的・文化的背景を持っている。つまり、そういう所与のバックグラウンドを抜きにしたところで、大成功する天才を「作る」ことは難しい、というのです。その“成功する法則性”の根拠が、あまり科学的ではない手法によって導き出されている点などが批判されてはいますが、この種の一般向けの読み物としては十分な説得力を持っていると思います。おすすめの一冊です。

 さて、グラッドウェルは、この本の中で医者のことには触れていませんが、医者の世界にもアウトライヤーと呼べる人たちはもちろんいます。臨床医として人並み外れた仕事をして医療を変革する人もいれば、研究者として後世に名を残す人もいます。アウトライヤーにまでは達しなくても、医者としてのキャリアを積んでいくにあたって、私たちは誰しも成功したいという願いを持って日々仕事に励んでいると思います。人によって成功の尺度も最終目的地も違いますが、失敗したいと思ってキャリアパスを選ぶ人はいません。

 医者になることの本来の目的は、多くの人の苦しみを和らげ、命を助けることです。言うまでもなく、この目的を達成するには、いくつもの違った方法があります。臨床医となって患者を救うことが最も直接的で分かりやすいやり方です。大学の教員になって次世代の医者を育てることも、間接的ではありますが重要で不可欠な仕事です。研究に打ち込んで大発見をすることで、医療を変革していくことを目的とする人もいます。これは成功する確率は低いですが、成功すれば目の前の患者だけに限らず、現在そして未来の多数の患者の救済につながる可能性があります。目的が何であれ、どうすればそれを達成することができるでしょうか。医者としての成功に法則性はあるでしょうか。


ビル・ゲイツとビートルズの共通点

グラッドウェルは『Outliers :The Story of Success』の中で、どんな分野でも大成功するには1万時間の“密度の濃い”練習時間を持つことが必要最低条件だと説いています。この例として音楽家やアイスホッケー選手が挙げられていますが、1日3時間、年間330日を練習に当てても10年前後、1日6時間の練習でも5年かかることになります。このあたりは、楽器やスポーツをやったことのある人には感覚的に分かりやすいところだと思います。ここで大事なのは、1万時間の練習時間は必要条件であっても、大成功の十分条件ではないという点です。1万時間の血のにじむような練習を大成功に結び付けるには、できるだけ若い時期に、しかも人に先んじて優れた練習環境に身を置くことが重要だとグラッドウェルは主張します。

 具体例として挙げられているのは、ビル・ゲイツとビートルズです。ビル・ゲイツは1955年生まれですが、住んでいた場所などいくつかの偶然も幸いして、中学2年生のころには本格的にコンピュータプログラミングを始め、高校生の時には既に1万時間をはるかに超える量のプログラミングをこなしていました。今なら1万時間ぐらいのプログラミング経験のあるプログラマーはいくらでもいるでしょうが、当時1万時間以上のプログラミングをしたことのある高校生は世界中でも何人もいなかったはずだと、ビル・ゲイツ自身が述懐しています。

 またビートルズは、あまり知られていない事実ですが、アメリカデビュー前の1960年ごろ、ドイツのハンブルグにあるナイトクラブで、1週間毎晩8時間以上ぶっ続けで演奏するライブツアーをしていました。この期間は1年半ほどでしたが、その間にビートルズは270回以上ものライブ演奏をしています。1964年にビートルズの成功が揺るぎないものになるまでには、合わせて1200回以上のライブ演奏をこなしたそうです。これはとてつもない量の生の演奏時間です。この人並み外れたライブ演奏の経験が、ビートルズの大成功の礎になったといわれています。

 つまり、アウトライヤーと呼ばれるレベルの大成功を遂げるためには、人に先んじた密度の濃い長時間の練習が必要だということになります。


1万時間のルールは医者の成功にも当てはまるか

 医者の場合、専門が何であれ、一人前になるにはすべからく1万時間ぐらいのトレーニングが必要だと思われます。その点で、医者の場合にもこのルールは当てはまると言ってよいかもしれません。しかし、例えば外科医の場合、下手な外科医の方が手術時間が長いぶん、早く1万時間の練習時間に到達してしまう点は問題です。この場合、“密度の濃い”1万時間であることが重要です。

 医療の場合、既にトレーニングシステムが確立しているので、これから人に先んじてある分野のトレーニングを積むには、かなりの工夫が必要になります。例えば、心臓外科医として1万時間のトレーニングを積むには、1例が5時間としても2000例の手術を執刀する必要があります。日本では年間200例以上の心臓手術をしている施設は数えるほどしかありませんが、その施設で全例執刀させてもらえたとしても、1万時間の執刀経験を積むには10年以上かかります。しかも、そういう施設には既に教授や部長クラスのベテラン外科医がいて、大半の手術はそういう“上”の先生が執刀しますから、研修中の若い医者が執刀できるのは全体のせいぜい1割ぐらいかもしれません。そうなると執刀医として1万時間の経験を積むには100年かかってしまうことになります。これは、現実的には不可能です。

 そこで、より多くの心臓手術が行われている外国(例えばアメリカ)で経験を積むのが一つのオプションになります。現に、人に先んじてアメリカで経験を積んだ心臓外科医たちが、黎明期の日本の心臓外科の発展に大きく寄与してきました。現在でもアメリカに心臓外科の研修をしに来る日本人医師は多数います。アメリカでは日本の20倍近い数の心臓手術が行なわれていることを考えると(アメリカでは年間70万件に対して日本では4万件弱)、これは十分に理解できる選択肢です。この点は麻酔科でも同じで、例えば心臓麻酔の専門家になろうと思ったら、私のようにアメリカに来てトレーニングを積む方が効率はよいことになります。しかし、既に日本でも心臓外科や心臓麻酔分野のトレーニングシステムが確立した現在、そのアドバンテージは小さくなってきているように思います。今後はさらにプラスアルファの工夫が必要かもしれません。

 もう一つのアプローチは新しい術式や治療法の開発に取り組むことですが、これは臨床だけに従事していては難しく、研究者としての視点が必要になってきます。


5万時間かかる研究者への道

 研究は無から有を生み出す醍醐味のある大変面白い仕事です。しかしそれだけに、成果を出すには莫大な時間がかかります。研究者として成功して独立するためには、1万時間の訓練では到底足りません。そのくらいの時間は、大学院レベルまでの研究のトレーニングで費やしてしまいます。“成功した一人前の研究者”の定義は曖昧ですが、ここではアメリカを例にとって考えてみます。

 アメリカで一応独立した一人前の研究者と見なされるためには、NIH(National Institutes of Health:国立衛生研究所)のR01(詳細は「研究留学ネット」の「NIHグラントのしくみ」をご参照ください)という研究費を獲得しているかどうかが一つの目安になります。

 NIHの報告によると、研究者が最初のR01を獲得したときの平均年齢は、2008年現在で45歳前後なのだそうです。大学院を卒業してから約20年かかっていることになります(ちなみに、この平均年齢はここ20年ほどの間に上昇の一途をたどり、大きな問題になっています。これについては、またの機会にご紹介したいと思います)。プロの研究者の場合、1日の研究時間が3時間などということはありえず、だいたい週末も含めて一日中研究をしているものです。食事や寝る時間を差し引いて、1日平均8時間、年間330日研究したとしても、5万時間を優に超えることになります。しかも、5万時間を費やしても結局R01を獲得できずに終わる人の方がはるかに多いのです。こうしてみると、無から有を生み出す醍醐味があるとはいえ、研究で成功するのは本当に大変なことがよく分かります。研究は一生の仕事です。本当に好きでなければ、到底できません。


時間以外の要素

 どの世界でも、同じように1万時間や5万時間のトレーニングをして、成功する人としない人がいるのは明らかです。何がその違いを生むのでしょうか。持って生まれた才能の差だという人もいるでしょう。しかし、人間の才能に大きな差はなく、それ以外の要素の方がはるかに重要だとグラッドウェルは主張します。私もその意見に賛成です。しかも多くの場合、自分ではどうすることもできない時代的・家系的背景や教育環境などが、本当に大成功できるかどうかを左右する場合が多いようです。

 医者としてのキャリアプランを考えたときに、人に先んじてトレーニングをするという、時期の問題に加えて重要なのは、優れたメンターの存在です。時代的・家系的背景は自分では変えられませんが、メンターは選ぶことができます。そこで次回は、医者・医学者として成功するために欠かせないメンターについて考えてみたいと思います。
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