2010年03月16日

「臓器移植」という名のパンドラの箱


河合達郎
(マサチューセッツ総合病院移植外科/
ハ―バード大学医学部外科准教授)


 本当はもう少し軽い話題にしたかったのですが、昨年日本の国会で「臓器移植法改正案」が可決(2009年6月に衆議院、7月に参議院にて)され、今年の7月から改正法がいよいよ施行されると聞きました。臓器移植の実施を待っている患者さんやご家族に、少しでも希望の光が照らされることを願ってやみません。そこで、この機会に移植医の端くれとして、移植医療について書かせていただこうと思います。
移植医療との向き合い方

 もう15年ほど前のことになります。当時の東京女子医科大学教授(現・名誉教授)で私の恩師でもある太田和夫先生に連れられて、衆議院議員宿舎の複数の議員の部屋を突撃訪問し、脳死法案成立のための説明に回ったことが思い出されます。秘書が出て来るだけの場合がほとんどでしたが、中には直接会って長い時間話を聞いてくれる奇特な議員もいらっしゃいました。それからかなりの時間が流れましたが、残念ながら臓器移植に対する日本人の考えが大きく変わったとは思えません。

 移植医療というのは複雑なものです。脳死移植の場合、移植の成功によって幸せの頂点にいるレシピエントの対極に、ドナーの死という残酷な現実があります。医療者としては、この両極を常に見つめていかなければならないため、いくら移植に成功しても、心が晴れたことは一度もありません。生体移植でも、特に発展途上国では、臓器売買などのあってはならない問題も生まれています。

 移植医療は、いわば「開けてはならないパンドラの箱」を開けてしまったようなものです。しかし開けてしまった以上は、もうどうしようもありません。渡航移植が厳しく制限されようとしている現在、それぞれの国で臓器移植にどう対応していくのか、正面から向き合っていかなければならない時期に来ています。その結果、いろいろな理由によって日本が移植に対して消極的であっても、他国に責められるものでもありません。

 ただこうしてアメリカに住んでいると、「何かあっても、ひょっとしたら移植という手もある」という潜在的な安心感があることは否めません。アメリカでは、透析患者でも4〜5年待てば何とか移植の機会が巡ってきます。しかし日本では、宝くじに当たるよりも低い確率しか期待できず、ほとんどの透析患者は何の希望もないまま、一生透析につながれていなければならないのが現実です。腎臓疾患に対してはまだ透析という手段がありますが、肝臓や心臓になると事態はもっと深刻です。われわれ自身の選択の結果であるとはいえ、日本に住んでいるということは、移植に関してだけ考えれば、不幸なことだといえます。


「心身二元論」対「山川草木悉皆成仏」

 移植および脳死に対する日本人と西洋人の考え方の違いについては、いろいろと議論されてきました。私も移植医療に携わっているため、この問題を避けて通るわけにはいかず、いろいろと考えてきました。突き詰めると、両者の考え方の違いは3点に集約されるのではないでしょうか。

 第1点は、よく言われることですが、体が温かく血色もよい状態にある脳死を、感情的に死として受け入れられるかどうかということです。近代哲学の祖であるデカルトと、日本の哲学者で代表的な脳死反対論者の梅原猛氏の対談がもし実現したら、こんな感じでしょうか。

 デカルト「精神と物質をはっきりと分け、客観的な観察だけに基づかない限り、真実は見えて来ないのだよ。私のこの二元論に拠ったことにより、君たちは迷信を抜け出し、科学を発展させてこられたのじゃないかね。我思う、故に我あり――人間の思惟があるからこそ人間の存在がある。他の部分が生きていようが、脳の死こそが人間としての死なんだよ」

 梅原「私はあんたから多くを学んだが、人間まで機械のように扱う考えには反対する。日本人は、『山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)』といって、どんな物質にも魂が宿るという考え方をする。脳死を死と認めることは、結局、思惟を持たない生命の存在を認めないことになる。一つの細胞の中にもその人間全体の遺伝情報が入っていることが分かった今、身体の一部にも精神は宿っているとするのが新しい生命観なんだよ。外来の刺激に全く反応しない、自発呼吸もない、回復するということはありえない――それでも生命は存在するかもしれないじゃないか」

 精神と物質である身体を切り離して考えられるか――。アメリカでも、あくまで個人的には日本人に近い考えをもっている人がいます。その証左として、脳死患者の家族に臓器提供をもちかけても、承諾される方は地域によってはせいぜい半数程度であるという事実があります。ただはっきり言えることは、世論を左右する知識階級となると、精神と身体を分離して考えるということにはあまり抵抗がないようです。

 それよりもアメリカ人にとっては、生命の始まりの方がもっと大問題で、堕胎やStem Cell(幹細胞)などにはヒステリックといえるほど敏感です。逆に日本では、「見えない死」ともいわれる脳死に対して潔癖なほどに厳しいのに、「見えない生命」である胎児は物質としか見ておらず、堕胎の是非もほとんど議論されることがないという論理のアンバランスが存在します。


クリスチャンの善意と移植

 第2点として、やはりキリスト教の影響がかなり大きいと思います。キリスト教では、信者のコミュニティーにおいて、どのような善意の貢献をするかが非常に重視されます。これに対して日本を含むアジアでは、儒教の影響が強いのか、家族あるいは親族を第一に考えます。親族はともかく、“赤の他人”のために身を捧げるということは考えづらいのです。

 このアメリカ人の善意を理解してもらうためには、アメリカでの生体腎ドナーの話が分かりやすいかもしれません。日本では禁止されていますが、アメリカでは非血縁間の生体腎ドナーが認められています。

 最近では内視鏡手術が普及してドナー手術を受けやすくなったこともあり、この非血縁のドナーが生体腎移植の半数以上を占めるようになっています。友人間はもちろんのこと、「近所の子どもが腎不全になったから、あの子に腎提供したい」「娘の友達の父親に腎提供したい」(写真)など、本当に様々なドナーがいます。もちろん、腎提供が強制されたものでないこと、そして金銭が絡んでないことは注意深くチェックされます。



【娘の友達の父親に腎臓を提供した主婦。左から、レシピエントの妻、ドナー、レシピエント、ドナーの夫。この当時はまだ内視鏡手術がすべてのドナーに適応されていなかったため、レシピエントの回復の方が早く、まだベッドにいるドナーを見舞っている。】
kawai0315.jpg



 興味深いのは、ドナーの家族の対応です。誰でも最初は驚くようですが、最終的にはドナーの貴重な意思を尊重し、応援するようになります。写真の主婦のご主人にも話を聞いたのですが、「リスクは承知しているが、交通事故だっていつ起こるか分からない。最初は驚いたが、非常によいことなのでサポートしている」とのことでした。

 もし日本で誰かが善意で他人のためにドナーとなりたいと言っても、家族や親族から強く反対される上、世間からは奇異の目で見られ、果ては金銭目当てだろうとうわさされかねません。日本では性悪説が主流で、人の善意を素直に信じられないのです。アメリカでは善意がもっと素直に受け止められています。

 さらに究極的な善意のかたちとして、anonymous donor(匿名ドナー)というものがあります。これは、レシピエントを特定せず、とにかく誰でもいいから腎臓を提供したいという生体腎ドナーのことです。匿名ドナーといってもピンとこないので、私は「慈善ドナー」と勝手に名付けていますが、私自身が経験しただけで20人以上に上り、大学生から弁護士、退役軍人まで、様々な方がいました。こうした腎提供では、ドナーはレシピエントとコンタクトがないので、臓器売買の可能性は全くありません。こうしたドナーが、アメリカでは今やそれほど珍しいものではなくなってきましたが、日本では考えられるでしょうか。


医療、そして移植への信頼感

 第3点として、医療に対する信頼感の度合いも無視できない問題でしょう。アメリカで臨床医として働いていて感じるのは、アメリカ人は医師に非常な信頼を置いているということです。マスコミも医師に対しては決して否定的な態度を取りません。

 日本では、長く閉鎖的な医局制度が医療を支えてきたため、医療ミスなどがあってもお互いにかばい合い、自浄作用が期待できませんでした。その典型例が1968年に札幌医科大学で起こった和田心移植です。この事件により、国民の医療に対する、特に移植に対する信頼感が非常に傷付けられました。最近になって、初期臨床研修制度によって医局の力が弱まり、情報開示も進んできたといわれていますが、どの程度本当にオープンになれるかはこれからが正念場といえます。

 パンドラの箱の中からは、「諸悪」と「矛盾」がこの世に放出された後、最後に「希望」が出てきたといいますが、近い将来、臓器移植に免疫抑制剤は必要でなくなるでしょう(興味のある方は Kawai T et.al. N Engl J Med 2008 358:353-361.をご参照ください)。再生医療の進歩と相まって、移植医療ももっとすっきりとしたものに進化していくよう願っています。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/36405276
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック