2010年04月02日

あなたは世界が変化する速度を意識していますか


市瀬 史
ハーバード大学医学部アソシエイト・プロフェッサー/
マサチューセッツ総合病院麻酔集中治療科・麻酔医


 興味深い統計があります。ある技術が、発明されてから5000万人に使われるようになるまでにかかった時間を比べたものです。それによれば、ラジオは38年、テレビは13年かかっています。ところが、インターネットは4年、iPodは3年、そしてソーシャル・ネットワーキング・サービスのFacebookはわずか2年で5000万人に普及しています。

 この話は、You Tubeに投稿された“Did You Know;Shift Happens”というビデオから抜粋したものです。もともとは2006年にコロラド州のAparahoe High Schoolの職員会議で行なわれたプレゼンテーションがインターネット上に流出したものですが、興味深い統計と推測に満ちています。個々の統計の内容もさることながら、私が一番興味を引かれたのは、世界が変化していく速度そのものです。

オンライン遺伝子検査サービスの登場

 私たちは今、科学技術の進歩が指数関数的に加速する時代に生きています。生命科学も例外ではありません。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが、デオキシリボ核酸(DNA)の二重らせん構造に遺伝情報が隠されていることを発見したのは1953年です。その後の研究で、人間のDNAは30億の塩基対からできていることが分かりました。

 そして、1990年に始まったヒトゲノムプロジェクトでは、13年の歳月と30億ドル以上の経費をかけて、人間のゲノムのすべての塩基配列を解読するのに成功しました。ワトソンとクリックがDNAを発見してから、その塩基配列がすべて解読されるまでに、ちょうど50年かかったことになります。しかし、その後の技術的進歩によって、2007年には1人の人間の全ゲノム解読のコストが3000分の1の100万ドルに、2008年3月の時点では6万ドルになりました。2008年の終わりには、すべての塩基配列の解読を5000ドルで24時間以内にできるまでになったのです。

 その結果、昨年末には既にいくつもの一般消費者向けオンライン遺伝子検査サービスが利用できるようになっています。例えば、アメリカのベンチャー企業Navigenics社(カリフォルニア州Foster City)では、オンラインで申し込んでから7日で検査キットが到着し、唾液サンプルを送り返して11日後、パスワードで保護されたウェブサイトで結果が見られるようになるそうです。999ドルの費用で、脳動脈瘤をはじめとする28の疾患にかかるリスクの有無を分かりやすく説明してくれます(2010年3月現在)。

 Googleも出資している23andMe社(カリフォルニア州Mountain View)では、499ドルで51の疾患に対するリスクを検出するだけでなく、同社で遺伝子検査をした人の中から、自分と似た遺伝子型を持つ、いわば遠い親戚を“紹介”してくれるそうです。遺伝子型の近い者同士、ソーシャル・ネットワークを作ってゲノムや家族歴を比較することもできます(2010年3月現在)。なお、ここで紹介したサービス内容も、猛スピードで変化していくものと思われます。2010年は、分子生物学や遺伝子工学の進歩がコンピューターサイエンスの進歩と融合した記念すべき年になるかもしれません。


遺伝子情報とパーソナライズド・メディシン

 日常の臨床や研究に没頭していると、周りの世界がどちらの方向に向かって、どれだけの速さで動いているか、ほとんど意識することはありませんし、それでも日常生活や仕事には取り立てて問題は起こらないように見えます。患者との一対一の関係に基づく医師の仕事は、周囲の世界の状況に直接的には影響を受けない“聖域”のようなものかもしれません。しかし、私たちが意識する・しないにかかわらず、世界は確実に変わっていきます。そして、社会構造や国際関係や科学技術の変化は、間違いなく医療にも影響を与えます。

 「40や50の疾患に対する危険遺伝子型の存在の有無が分かったところで、大した意味はない」と切り捨てることは簡単です。しかし、約2万あると言われる遺伝子の働きが今後の研究で一つずつ解明されるに従って、この種の検査の対象となる疾患の数が増えていくことは確実です。このような生命科学の急速な進歩は、既に現場の医療を変え始めているのです。

 例えば、「Business Week」誌(2010年2月1日号)に、処方薬に関する興味深い記事が出ていました。医師には周知のことですが、たいていの薬は服用者の50%くらいにしか効かず、ある統計によれば、2008年にアメリカで処方された3000億ドルの処方薬のうち、約1500億ドル分は、その薬が有効でない患者のために使われたとのことです。しかもその上、効かない薬で引き起こされた副作用を治療するために、何百億ドルもの医療費が費やされたそうです。これは恐ろしく無駄なばかりか、患者の生命が無用な危険にさらされていることを意味します。

 こうした状況を打開する方法は、研究者の間では既に広く知られています。ある薬が効く人と効かない人の遺伝子の違いを調べ、効く遺伝子を持っている人だけに当該の薬を処方すればよいのです。現在では、技術的にも経済的にも充分に可能なことです。ところが、このような“パーソナライズド・メディシン”(個性化医療)は、十数年前に予測されたほどには進んでいません。数年前までは遺伝子検査がまだまだ高額だったことも理由の一つですが、製薬会社が導入に消極的なことも大きな原因だと言われています。本当に効く人だけに薬が処方されるようになれば、製薬会社の売り上げは半減するわけで、無理もないかもしれません。


パーソナライズド・メディシンのメリットとビジネス効果

 ところがここへ来て、事態が好転する兆しが見え始めました。CVS/ファーマシーなどの巨大薬局チェーンが、遺伝子検査サービスを開始したのです。処方薬の消費が減れば利益も減るのは薬局も同じですが、この遺伝子検査サービスを労働者の雇用者に売ることで利益を上げようというビジネスモデルです。

 アメリカでは雇用者が労働者の医療保険料の何割かを負担しますが、保険料が高くなり過ぎて、企業経営を圧迫するところまできているという背景があります。これがゼネラルモーターズ(GM)の倒産の一因にもなりました。ですから雇用者としては、遺伝子検査費用が少々かかっても、それによって処方薬のコストが減り、労働者の健康状態が改善すれば、十分に元が取れます。労働者側からすれば、本当に効果のある薬だけを飲み、効果のない薬の副作用にさらされる危険がなくなるわけですから、その利益は明らかです。

 例えば、広く用いられている抗凝固薬のワルファリンは、個々の患者に応じて適正な投与量を加減するのが非常に難しい薬です。過剰投与になれば脳内出血などが起こりやすくなり、足りなければ致命的な血栓形成を招く危険があります。Medcoという巨大処方薬会社の記録では、「ワルファリン投与開始後、25%の人が副作用のために入院した」という驚くべき実態が指摘されています。遺伝子検査の迅速化・低廉化によって「1人の入院を回避できれば、100人分の遺伝子検査をしてもお釣りがくる」と言われるゆえんです。既にMedcoは、ワルファリンの処方に際して遺伝子検査を行なうことを推奨しており、事前の調査では医師の67%と患者の82%が遺伝子検査に賛成したと報告しています。


【筆者の所属するマサチューセッツ総合病院では、Yawkey外来患者センターという施設にGenetics(遺伝学科)が置かれています。】
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 このようにアメリカでは、生命科学の進歩に基づいた新しいビジネスモデルを作り、医療費の増大と健康被害の拡大に対応しようという動きが活発になっています。もちろん遺伝子検査は、個人情報保護などの様々な問題を含んではいます。しかし、それは解決可能な問題です。パーソナライズド・メディシンの導入は、医療費の無駄をなくし、医療による健康被害を減らす鍵となるばかりでなく、新しい医療関連産業創生にもつながる可能性を秘めています。


パーソナライズド・メディシンは日本に根付くか

 パーソナライズド・メディシンが日本に導入されるためには、越えなければならない多くのハードルがありそうです。例えば、一般的に日本人は医療を医師任せ、国任せにする傾向があります。その点アメリカ人は、「自分の体は自分で守る」という意識が強くて、よく勉強しています。究極の個人情報である遺伝子情報を取り扱うことなしには成り立たないパーソナライズド・メディシンが日本に根付くためには、患者と医師双方の意識改革が必要かもしれません。

 また、やみくもに医療費を減らす、あるいは医療費の伸びを抑えるという近視眼的な医療政策の下では、パーソナライズド・メディシン導入のような大きなパラダイムシフトは不可能でしょう。遺伝子検査が広く使われるようになるためには、初期投資が必要です。さらに、遺伝子検査の結果を分かりやすく患者に説明する必要がありますが、既に忙しい日本の医師にそれを求めるのは不可能です。そこで、遺伝子コンサルタントのような新しい職種も必要になるかもしれません。

 いろいろな問題があったとしても、個人の遺伝子情報に基づいた医療が、生命科学の進歩の大きな流れの一つであることは明らかです。そして、その大きな流れは日々加速しているように見えます。パーソナライズド・メディシンが導入されれば、少なくとも一時的には医療費は増大するでしょう。しかし、その結果として、医療の効率と安全性は長期的には向上するはずです。患者個人の遺伝子情報を無視して医療が施行できる時代は、終わろうとしているのかもしれません。

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