2010年04月20日

オリンピックの金メダルと医師のキャリア


市瀬 史
ハーバード大学医学部アソシエイト・プロフェッサー/
マサチューセッツ総合病院麻酔集中治療科・麻酔医



 バンクーバー冬季オリンピックが閉幕し、日本は銀メダル3つと銅メダル2つで、金メダルはゼロという結果に終わりました。私は日本のアイススケート発祥の地である諏訪湖の畔、長野県下諏訪町に生まれ、大学時代は競技スキーに明け暮れた関係上、ウィンタースポーツに対する思い入れは人一倍深いものがあります。
【長野冬季オリンピックのアルペンスキー複合の金メダリスト、オーストリアのマリオ・ライター選手とのツーショット。懐かしい思い出で】
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 長野冬季オリンピック(1998)では、アルペンスキー会場のドーピングコントロールの責任者として参加もしました。ですから今回のオリンピックも、眠い目をこすりながら毎晩テレビで日本選手を応援しました。特に、フィギュアスケート女子シングルの浅田真央とキム・ヨナ対決は、大変に見応えがありました。浅田選手は頂点に立つことができませんでしたが、2014年ソチ冬季オリンピックでの活躍を期待しましょう。


金メダリストからの転身

 さて、フィギュアスケート女子シングルの金メダリストというと、2002年ソルトレークシティー冬季オリンピックのサラ・ヒューズ(アメリカ)を思い出します。当時17歳の新星でしたが、フリースケーティングの高得点で逆転に成功し、金メダルを獲得しました。彼女は、今回のバンクーバーにもアメリカ選手の応援に来ていたようで、観客席にいる様子がテレビにも映っていました。サラ・ヒューズは、既にスケートからは引退して名門イェール大学医学部に在学中で、医師になることを目指しているそうです。

 フィギュアスケート女子シングルの金メダリストから医師に転身するのは、サラ・ヒューズが初めてではありません。1956年のコルティナダンペッツォ冬季オリンピック金メダリストのテンリー・オルブライトという女性は、1961年にハーバード・メディカルスクールを卒業して外科医になっています。

 また、1980年のレークプラシッド冬季オリンピックで男子スピードスケート500m、1000m、1500m、5000m、10000mの全5種目で金メダル(!)という快挙を成し遂げたエリック・ハイデンが医師になったこともよく知られています。金メダルの威光もあってコマーシャル出演の話が殺到したそうですが、「金メダルを金もうけに使いたくない」と断り、しばらくは自転車競技のロードレースで活躍した後、医師に転身しました。彼は1991年にスタンフォード大学医学部を卒業し、現在に至るまでカリフォルニア州サクラメントで開業の整形外科医をしているそうです。

 「だからどうした」と言われそうですが、これらのケースは、アメリカの医師の中には非常に多彩なバックグラウンドの持ち主がいることの一つの表れです。


Productivityを評価するアメリカ社会

 制度的にも、アメリカには他の仕事やスポーツで成功を収めた人が医師になりやすい仕組みがあります。アメリカでも医学部は非常に狭き門ですが、スポーツや芸術などの一芸に秀でた人を優先的に別枠で入学させる制度が広く行なわれています。学業や共通試験の成績と、過去の仕事やスポーツなどでの業績のどちらを重視するかは大学によっても違いますし、普通は公表されませんが、アメリカの高等教育やレジデンシープログラムの選抜基準の基本的な考え方はある程度一致しています。それは“Productivity”(生産能力)の高い人を選ぼうとする姿勢です。

 Productivityなどと言うと、日本では何となく車や機械の生産のようにハードウェアを作り出す能力のように聞こえますが、ここでは広く「価値のある物事を成し遂げる能力」のような意味です。「オリンピックで金メダルを獲れる(あるいはオリンピックに出られる)能力を持った人は、超人的な体力だけでなく、人並み外れた集中力や目標達成をあきらめない粘り強さも持ち合わせているだろう」と推定されているわけです。

 アメリカのメディカルスクールに入学するためには、高いProductivityを保証する多彩なバックグラウンドが物を言います。ただし、卒業するためには他の人と同じように猛勉強してよい成績を残し、よいレジデンシープログラムに入らなければなりません。一般的に、アメリカの大学や大学院に相当するGraduate School(メディカルスクールもその一つ)は、「入学するのに比べて卒業する方がはるかに難しい」と言われています。

 アメリカ社会では、常に最終学歴(または訓練歴)が1番重要です。医師の場合は、大学よりもメディカルスクール、メディカルスクールよりもレジデンシーを修了した施設が、その後のキャリアに大きく影響します。そのために皆、大学時代によい成績を挙げ、研究などで実績を残して、少しでもレベルの高いレジデンシープログラムに入ろうとします。その競争は激しく、ここでも超人的な体力、集中力などが物を言うことは容易に想像が付きます。


ロブの思い出

 多彩なバックグラウンドという意味では、私のラボの最初のテクニシャン(研究助手)だったロブのことを思い出します。ただし、ロブはオリンピック選手でも芸術家でもありませんでした。

 大家族で育ったロブ(13人兄弟の2番目でした)は、もちろん大学へ行く学費も出してもらえませんでした。そこで、地元の公立高校を卒業後、まず厳しい訓練で知られる海兵隊に入隊します。健康上の問題で海兵隊を除隊後、友人と建築会社を立ち上げ、経営者として数年を過ごします。この建築業は、当時のバブル景気のおかげもあり、かなり成功したそうです。しかし、向学心の高かったロブは、建築業の仕事をしながらコミュニティー・カレッジ(地域の住民、税金を払って住んでいる人たちへの高等教育および生涯教育の場として設けられた公共の教育機関。志願者全員合格が原則で、職業訓練や4年制大学への編入学の準備などを行なっています)を卒業して、4年制大学への編入資格を得ます。

 いつのころからか医師を志したロブは、コミュニティー・カレッジ卒業後、ボストンの名門私立大学の一つであるタフツ大学に入学し、良好な成績で卒業します。ロブが私のラボのテクニシャンのポジションに応募してきたのは、タフツ大学を卒業した時点でした。ラボでの仕事ぶりは、科学者タイプではありませんでしたが、真面目に遅くまでよく働いてくれました。そして、以前の建築業や私のラボで稼いだお金などをかき集めてメディカルスクールの入学資金を作ったロブは、3年後、見事にネバダ州のメディカルスクールに入学し、現在も勉強に励んでいます。

 ロブのように、いくつもの職業を渡り歩きながらやりたいことを見付けて最終的に医学部に入ってくる人は、アメリカではそれほど珍しくありません。日本ではこういう人たちのことを「苦学生」と呼びますが、ロブのようなアメリカ人にそういう悲壮感はありません。一般的に、こういう人たちはモチベーションが高く、医師になってもよく勉強し、よく働きます。豊富な人生経験を持っているだけに、人間的にも魅力のある人が多い印象があります。ロブもそうでした。きっと人間的魅力にあふれた医師になるだろうと、今から楽しみです。


“寄り道”を歓迎しない(?)日本社会

 私の学生時代を振り返ってみると、日本の医学部の学生には(私もその一人ですが)、多彩な人生経験を持った人があまりいなかったような気がします。どちらかと言えば横並び意識の強い日本社会では、ロブがやったような“寄り道”はあまり歓迎されないのかもしれません。

 私が知らないだけかもしれませんが、オリンピックレベルに到達した日本の運動選手が、競技引退後、医学部に入り直して医師になったという話も聞いたことがありません。子どものころから運動に没頭してきて競技を引退した人が、入学試験だけ極端に難しい日本の医学部に一念発起して入学するというのは、かなり無理な話です。もちろん、オリンピック選手にまでなってから医師になる必要など何もないのですが、そういう選択肢があってもよいような気がします。

 スポーツの側から見ると、日本でも制度的にキャリアの選択肢を広げることによって、いろいろなスポーツに力を入れられる人が増え、競技の人口と裾野が拡大し、結果的にはオリンピックレベルの競技者が誕生しやすくなるのではないかと考えられます。若いうちに一生懸命スポーツに打ち込み、オリンピックを目指して頑張っても、引退してから医師や弁護士になれる社会的制度あるいは慣例が日本でも確立されれば、やがてサラ・ヒューズのような選手が生まれてくるでしょう。

 「社会人大学院構想」とか「日本式メディカルスクール構想」というものをどこかで読みましたが、これからの老齢化社会に向けて、医師不足を解消するための一つの手段として十分考慮に値すると私も思います。そればかりか、日本式メディカルスクールの実現は、日本がオリンピックの金メダル獲得数を増やす鍵になるかもしれません。まさに一石二鳥です。企業任せの一時的な報奨金制度などでお茶を濁すよりも、この方がずっと永続的な効果があるような気がします。文部科学省やJOCの皆さん、いかがでしょうか?
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