2010年12月29日

「今日は君に苦言を呈する」

河合達郎
(マサチューセッツ総合病院移植外科/
ハ―バード大学医学部外科准教授)


 日本の透析医療は世界最高レベルにあります。米国と比べてみると、レベルの違いはまず透析クリニックの環境に見て取れます。日本のほとんどの透析クリニックで患者専用のロッカーがあり、患者さんはパジャマに着替えてリラックスして透析の時間を過ごします。テレビもあるのが普通です。一方、米国では、リクライニングソファのようないすに腰掛けて普段着のまま透析を受けるのが普通です。
 また、日本では80%以上の患者さんが内シャントで透析を受けていますが、米国では内シャントの普及率は50%以下で、そのほかの患者さんは人工血管(グラフト)または中心静脈に留置されたカテーテルによって透析を受けています。中心静脈カテーテルによる透析は敗血症を引き起こす危険性が高いうえ、中心静脈をつぶしてしまうため、なるべく早く内シャントかグラフトに切り替える必要があります。ただ、グラフトについても、血栓で機能不全になることが多くあります。米国では、こうした透析のブラッドアクセスによる合併症のために費やす医療費は年間30億ドル以上にも上り、内シャントの普及率を上げることが急務となっています。

 もっとも、日本の透析医療のレベルの高さは腎移植の普及が遅れていたことの結果でもあり、移植外科医として手放しでは喜べません。日本の透析患者数は現在29万人以上となっているのに、腎移植数は年間わずか1200例程度。これに対して、人口が約2.5倍の米国における透析患者数は約36万人で、腎移植数は年間1万6000例を超えています。日本では移植になかなか希望を持てないため、透析療法が米国よりも格段に優れたものに進化してきたという側面があるでしょう。


日本の透析医療の礎を築いた太田和夫先生

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【太田和夫先生(1997年撮影)】

 日本における透析医療の基礎を築いたと言っても過言でないのが、東京女子医科大学名誉教授であった故・太田和夫先生です。非常に残念なことに、太田先生は2010年夏、享年79歳で亡くなられました。私は医学部を卒業してから先生のお世話になり、人生において大きな影響を受けました。今回は、この愛すべき偉大な先生の人生を振り返ってみたいと思います。

 私が先生に初めてお会いしたのは1980年の夏でした。当時私は医学部6年生で移植外科に漠然と興味を持っていたものの、腎移植をルーチンにやっている病院は日本にはまだ数えるほどしかありませんでした。

 そこで思い切って、当時最も多くの症例数をこなしていた太田先生に会ってみることにしたのです。慶應大学教授でエッセイストでもある阿川尚之さんが太田先生のことを評して「目がくるくるとまわる、智慧のあるフクロウ」とか「ダジャレを連発する小柄で精力的な先生」と書いていますが、私が最初に持った印象も「とにかく目がよく動く人だな」というものでした。結局、そのくるくる回る目を見ているうちに、催眠術にかけられたように即入局することになってしまいました。

 入局してからは、メスや鋏の持ち方から論文の書き方まで、それはそれは多くのことを学ばせていただきましたが、最も教えられたことは先生の生きざまでした。


あえて退路を断つ

 太田先生は1957年に東京大学医学部を卒業後、当時の東大・木本外科(第2外科)に入局されました。そこで移植人工臓器の研究班に入り、日本で最初の腎移植症例を手がけ、移植や人工腎臓の研究をされていました。そのうちに先生は、「透析と腎移植を組み合わせた腎臓病の総合医療システムを作りたい」という構想を持たれるようになりました。しかし、1960年代後半に始まった東大紛争のために大学は封鎖され、先生の夢を東大で実現できる見込みはまったくありませんでした。

 そこで、当時心臓外科で名を馳せていた女子医大の日本心臓血圧研究所(心研)の榊原仟(しげる)教授を頼って、構想を実現するために女子医大に移られたのでした。このとき、太田先生は38歳でした。しかし、そこで与えられたのは研究職の助手のポストと1つの机だけ。東大に在籍していれば順調に栄達できたでしょうに、自分の夢を達成するために、それまで外科医としてやってきたことを一度すべて捨てて退路を断ったわけです。

 それからの太田先生の半生は創意と工夫の連続で、女子医大では「太田先生の国盗り物語」と語られているほどです。まず「黙っていても患者さんは来ない」ということで、本を出すことにしたそうです。そして完成したのが『人工腎臓の実際』(南江堂)という医学書で、今でも版を重ねている名著です。さらに一般向けの本も5冊ほど続けて出されました。

 そうしているうちに患者さんも徐々に集まってきたので、夜間に空いた手術室を使って夜間透析を始め、さらには病院の焼却炉の上に狭い場所を見つけると、そこに透析室を作って透析医療を軌道に乗せていきました。

 1971年には女子医大での最初の腎移植を成し遂げられました。さらには、移植外科(第3外科)を創設してから腎臓内科や腎臓小児科も作り、泌尿器科を吸収して、当時新築された病棟の中に腎臓病総合医療センターを立ち上げられたのでした。

 本当にやりたいことがあるなら、すべてを捨て、あえて退路を断つ覚悟も必要―― 。先生の生き方はそんなことを教えてくれます。私も40歳になってから再渡米し、医師として生きていけるかも分からないような状況になりましたが、太田先生という見本があったからこそ、思い切った決断ができたと思っています。


心にしみたお叱り

 さて、時間を戻して、私が太田先生の元に入局してからの話です。 医局の卒後トレーニングに不満を持ち、他大学系の研修病院に出てしまったり、外から医局の批判をしたりで、私は医局の問題児になっていました。2〜3年、好き放題して医局に戻ってからのこと、ある宴会の席で太田先生は私を呼び出し、こう切り出されました。

 「今日は君に苦言を呈する」

 そして、「君はあれこれと、いろいろなことをやろうとし過ぎる(要するにいい加減な奴だということです)。これまではそれでよかったかもしれないが、これからは錐で揉むように一つのことをやり遂げなさい。水中にいるときは息ができなくて苦しいが、浮上したときは本当に気持ちがいい。それから自分の領域を広げていけばいい」と諭されました。

 最近は叱ってくれる上司がいないとよく聞きます。私にとって、この太田先生のお叱りは心の奥にしみ込み、その後の人生の指針となりました。ただ残念ながら、この不肖の弟子はまだ浮上できずに水中でもがいておりますが。


自分の居場所は自分で創る

 女子医大の教授を退任されてからの生き方も見事でした。どこかの病院長にという話も多数あったと思いますが、先生はあえて自分の小さな研究所を作り、執筆や社会活動に活躍の場を移されました。

 先生から退職後の構想を初めて聞かされたときは、「そんなことで仕事があるのかな?」というのが正直な感想でした。しかし、それはまったくの杞憂で、先生は退職からほぼ10年間、現役時代と変わることなく精力的な活動を続け、一般向けの本やエッセイを多く世に出されました。どんなところにいても仕事は自分で創り、自分の居場所を創っていくということを、再び身をもって示してくださいました。

 先生と最後にお会いしたのは1年ほど前のことで、病を得て自宅療養されていました。それでも、「晴耕雨読の毎日だよ」と、日々の農作業と読書に喜びを見出されていました。

 太田先生は名エッセイストであるとともに、写真の腕もなかなかのものでした。最後に、私が一番好きな、先生撮影の写真とそれに添えられた文章を紹介させていただき、ご冥福をお祈りしたいと思います。


透析者は重い荷を背負って
雪の稜線を歩いている
登山者のようだ

一寸した油断や不注意が
思いがけない結果を
招いてしまう

透析スタッフは良きガイドとなり
また心の温かい
山小屋の主人となって

長い尾根づたいの道を
病を共有する心で
ともに歩んで行きたい

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