2011年01月19日

日本での就職はあきらめた!

 こんにちは。サウスダコタ大学家庭医療科アシスタント・プロフェッサーの萩原裕也です。日本の医学部を卒業してすぐ、アメリカで3年間の家庭医療研修を始め、修了後の2007年からサウスダコタ州のViborgという田舎町で家庭医をしています。

 この連載は、妻の萩原万里子(同大内科レジデント)にも参加してもらい、交代で執筆しながらお送りしていきたいと思っています。僕たち夫婦は、2人の娘の子育てに泣き笑いしながらも、それぞれアメリカで臨床医として働き、充実した毎日を過ごしています。

 今回は2人の簡単な自己紹介を含め、僕がアメリカでレジデントとしての生活を開始するまでの道のりを紹介したいと思います。【有名なラッシュモア山国立記念公園(サウスダコタ州)を家族で訪れました。背後の岩壁には、歴史に名を残す4人の大統領の顔が彫られています。】

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いつかはまたアメリカで…

 僕は5歳から12歳までをシカゴ郊外で過ごし、妻も5歳から10歳までをサンノゼで過ごしました。お互い、いわゆる帰国子女というわけです。僕は中学校に入学する際に帰国し、そのまま医学部を卒業するまで日本の教育を受けました。受験勉強以外で特に英語に取り組んだわけではないのですが、幸いにも日常会話程度をこなせる英語力は維持することができました。「いつかはまたアメリカで生活してみたい」という潜在的な願望があったためかもしれません。

 アメリカで過ごした幼少の頃の記憶が美化されているのは否めませんが、学校から帰って毎日のように広い裏庭や公園で暗くなるまで遊び、本当に子どもらしい、楽しくのびのびとした毎日を過ごしていたように思います。住んでいた家も大きくて、周囲には豊かな自然が広がっていました。漠然とですが、「自分の子どもにも同じような経験をさせてあげたい」という思いが常に胸にあったように思います。

 そのようなわけで、医学部に入ったときから、アメリカの医療に自然と興味を持っていたことはご理解いただけるでしょう。ある講義で「アメリカの医療は日本の20年先を行っている」とおっしゃった先生の話にも心を揺さぶられました。本当でしょうか? 今となっては、日本の医療そのものがそこまで後塵を拝していることはないにしても、医師の教育システムの面でははるかに先を越されていることは確かであると肌で感じています。

 医学部1年生となった僕は、いわゆる日本の医学生らしく(?)テニス部に入部し、4年生で東医体を終えて引退するまでは、テニスが生活の中心となっていました。ターニングポイントとなったのは、5年生の夏。当時の神経内科の先生のつてで、夏休みの期間にアイオワ大学神経内科で1カ月の実習をさせてもらったのですが、そこの医学生と自分とのレベル差に愕然とし、落ち込んで帰ってくることになったのです。

 実習先ではアメリカの医学部3年生と一緒になりました。アメリカでは四年制大学卒業後に4年課程の医学部に入学するので、アメリカの医学部3年生は、日本の医学部5年生だった当時の僕と同学年に当たります。しかし、彼らはほとんど日本の研修医1年目と同等のレベルで機能しているという印象を受けました。自分は問診も診察もろくにできないのに、同じ学生である彼らは診療内容をめぐって指導医と議論しているのです。自分の実力のなさを痛感するとともに、それを棚に上げて彼我の医学教育の質的な差異を嘆きたくなったのも正直なところです。

 この実習は僕にとって本当によい刺激となり、「研修は絶対にアメリカで」と決心するきっかけになりました。何とかして彼らに追い付き、追い抜いてやろうという思いで、残りの(といっても2年弱ですが)医学部生活を過ごしたものです。


1つでも不合格になれば浪人決定

 アイオワ大学での実習から帰った後、すぐにアメリカ臨床留学の計画を練り始めました。実現させるためには、何よりも、できる限り彼の地で長期間実習を経験して臨床力を身に付け、アメリカの医師に推薦状を書いてもらうことが一番大事だと考えていました。最初は神経内科に強く惹かれていたのですが、やがて家庭医を目指すことを決意しました。ちょっと欲張りですが、「どんな状況にも対応できる医師になりたい」「とにかく学べることなら何でも学びたい」という思いが強かったからです。

 もちろん、アメリカの医師資格試験であるUSMLE(United States Medical Licensing Examination)の勉強も本格的に開始しました。STEP1を6年生の4月、STEP2(現STEP2CK)を6月に受験し、その後はアメリカで実習を行ってからCSA(現STEP2CS)を受験するという計画を組みました。

 幸いなことに、当時の6年生が受講すべき講義はほとんどなく、計3カ月の選択実習が必修として課せられているのみでした。その実習さえ行えば、後は12月中に行われる3日間の卒業試験に合格すればよかったのです。また、神経内科や薬理学講座などの教授に直接お願いして、アメリカでの実習を単位として認めてもらうことができたのも助かりました。

 ただし、問題もありました。僕らは研修義務化初年度の学年だったことです。同級生は皆、夏休みの間に研修病院の面接などを受けて、初めてのマッチングに備えていました。ところが、この期間にアメリカで実習するのであれば、日本での研修はあきらめるしかなかったのです。

 なお、日本の医師免許がなくても、USMLEに合格していればアメリカで研修医として働くことはできるのですが、研究員用のJ-1ビザが発行されないため、結局は日本の医師国家試験に落ちてしまうとすべてがおじゃんになってしまいます。したがって、USMLEの各試験、日本の医師国試、アメリカのマッチングという関門の一つでも不合格となってしまえば、即座に就職浪人決定となってしまう状況。とにかく、がむしゃらに前に進むしかないという感じでした。

 計画どおりにUSMLEのSTEP1と STEP2を受験し、結果を待つことなく、すぐにアメリカへ発ちました。そして、大学の先輩から紹介していただいたイリノイ大学の家庭医の先生の下で最初の実習を開始しました。実は、この段階では実習日程さえすべて決まっていたわけではなく、実習許可を求めて現地から複数の施設に応募していました。そして、11月になるまでイリノイ州、ミネソタ州、インディアナ州、ミシガン州、ペンシルベニア州の6施設で実習を経験することができました。どうせ半年近くアメリカで過ごすのであればレンタカーより安上がりだろうということで、思い切って中古車を買いました。各実習先では大学の寮や格安のホテルを転々としました。

 最後に実習したメイヨークリニックでは、実習が終わる前に家庭医療プログラムのインタビュー(面接)に呼んでもらうことができました。その後、ニュージャージー州でUSMLE CSA対策用の短期合宿コースを受講し、フィラデルフィア(ペンシルベニア州)でCSAを受験して日本へ戻ってきました。


首尾よくマッチ外採用!

 日本へ戻ってからは、同級生の仲間と合流して大慌てで卒業試験の勉強に取りかかりました。卒業試験を無事終えたら、インタビューのために再びアメリカへ。アメリカ中西部を中心に20施設のレジデンシーへ応募したところ、10施設からインタビューの招待状が届いていました。プログラムのある街などを見て回る狙いもあって、万里子にもインタビューの旅に同行してもらいました。

 万里子と僕は大学の同級生であり、このインタビュー旅行の前に婚約していました。卒業後に結婚し、万里子の渡米準備が整い次第、一緒にアメリカで生活を開始する予定でした。そのときに彼女のポジションを考慮してもらえるかどうかということもプログラムを選ぶ際の重要な要素でしたので、2人にとってよいプログラムと街を吟味しに行ったわけです。

 ミシガン州立大学のプログラムでは、ディレクターとのインタビュー終了後、英語が堪能で、アメリカでの臨床経験が豊富だったと評価され、特例としてマッチ外での採用(内定)のオファーを頂きました。ミシガン州立大学家庭医療科のプログラムは全米トップテンの常連であり、街も住みやすそうで好印象だったため、このプログラムにサインして晴れてレジデンシーのポジションを手に入れることができました。その後に予定していたインタビューはすべてキャンセルして、帰国の途に就きました。

 結局、マッチ外での採用というかたちになりましたが、実はこのときのマッチングの結果発表日は運悪く日本の医師国試の試験日と重なっていて、プレッシャーに弱い僕としては、国試期間中の真夜中に結果発表を受けるなんて到底無理と思っていました。これを避けられたのは本当に助かりました。

 帰国後は仲間と国試の勉強再開です。当然ほかの同級生より遅れをとっているので、挽回するしかありません。無我夢中で勉強しました。国試の合格通知が届いて初めて「自分は本当にアメリカで研修医として働くのだ」と実感できたように思います。


アメリカンジョークの1つ2つは…

 レジデンシーに限った話ではありませんが、アメリカで成功するにはやはり英語力が不可欠です。ですから、アメリカでの臨床研修を目指し始めた4年生の頃から、本格的に英語の勉強を開始しました。なるべく英語中心の生活をするため、大好きなテレビも衛星放送で英語の番組のみを視聴していました。

 僕が留学した当時は、非英語圏出身者にはTOEFL(Test of English as a Foreign Language)の受験が義務付けられていました。今は義務ではなくなりましたが、自分の英語力を試すという意味で受験しておくのもよいと思います。少なくともTOEFL iBT 100点(旧TOEFL cBTでは250点相当)以上はマークしたいところです。

 僕はBarron'sやThe Princeton Reviewなどの教科書を利用してTOEFLの対策をしましたが、できることならアメリカの大学院に進学するのに必要な共通試験であるGRE(Graduate Record Examination)やGMAT(Graduate Management Admission Test)対策用の教材を利用して勉強することをお勧めします。最近では、iPodなどで使える音声や動画付きのソフトもいろいろあるので、できるだけナマの英語を聞くために活用してもよいでしょう。特に、医学英語の発音には苦労するはずですから。

 USMLE対策としては、問題集をひたすら解くだけではなく、多少値が張ってもUSMLE対策のためのレクチャーやビデオ講座などを受講したほうがよいと思います。僕の場合は、山梨から東京まで通学するのはちょっと厳しかったため、インターネットで受講可能なビデオ講座を活用しました。「“Acetylcholine”って、そう発音するのか!?」などと、レクチャーを聴きながら驚いたことを今でも覚えています。

 アメリカの臨床現場で働こうとするなら、医療ドラマの「ER」や「Dr.HOUSE」のセリフの9割以上を理解できるくらいの英語力は必須でしょう。ラップミュージックの歌詞が聴き取れるなら大したものです。

 また、ただただ「まじめな日本人」では通用しません。生来の「面白い奴」なら問題ないでしょうが、そうでなければ、アメリカンジョークの1つや2つは覚えて、陽気なアメリカ人に引けを取らないようにする努力も必要だと思います。病院スタッフなどと談笑できるということは、仕事をしていく上で実はとても大事です(と言いつつ、けっこう難しいことではあるのですが…)。

 次回は万里子に登場してもらい、アメリカで出産・育児を経験しながらレジデンシーにたどり着くまでの道のりを紹介したいと思います。


【おまけの医学英語ワンポイント解説】 “code blue”


 “code”は医療関係者の間では「心肺停止状態」を意味します。「危機的状況」という意味合いもあります。次のように動詞として使われることも多い単語です。

 My patient in room 204 coded last night. (昨晩、204号室の患者は心肺停止状態になった。)

 “code blue”は多くの施設で「心肺停止」を意味しますが、 この“色分け”は施設ごとの決めになっているので注意が必要です。僕が現在勤務する病院では 、“code blue”=「心肺停止」のほか、“code red”=「火災警報」、“code black”=「竜巻発生」などと決められています。かつて研修した病院では“code red”が「心肺停止」を意味していました。

 “run a code”という表現もよく使われます。心肺停止した患者のACLSの指揮を執ることを意味します。施設によりますが、ACLSの指揮は基本的に医師が行い、ほかのスタッフが気道確保、心臓マッサージ、ラインの確保などを実行します。

 Who is running the code for this patient? (この患者の心肺蘇生の指揮は誰が執っているの?)

 ちなみに、妻の勤務する病院ではロボットが心臓マッサージを担当しています。
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