2011年05月29日

麻酔をかける看護師に憧れた高校2年の秋

エクランド源稚子
ペディアトリックス・メディカル・グループ新生児専門NP
ヴァンダービルト大学看護大学院新生児NP講座クリニカルインストラクター


 午後のNICUは静かで、穏やかな表情の両親たちが、保育器の中のわが子をだっこしたり、退院を間近に控えた家族がナースからベビーCPRの講習を受けたりしていました。その日の回診を終えた私は、その夜の当直を担当する医師と一緒にぐるっとNICU内を回りながら、自分の診た10人ほどの児の報告をしました。wakako20110529.jpg
【尊敬するご夫妻と、ハイチでの一枚。当時、筆者は25歳くらい、ご夫妻は75歳くらいでした。】

「この患児は今朝から無呼吸の頻度が増えています。ABG(動脈血液ガス分析)の結果はあまり変わっていませんが、酸素必要濃度が多少上昇しました。今朝のCBC(全血算)で若干のleft sift が見られ、CRP値が確実に上昇していますので、 すぐに抗菌薬を処方しました。これから腰椎穿刺を行う予定です」。

 ざっと報告が終わると、感染の疑いのある児の両親に電話で状況を説明してから、腰椎穿刺を行うためにベッドサイドのナースに補助と準備をお願いしました。無事に腰椎穿刺を終え、4本の試験管チューブに入ったCSF(脳脊髄液)をナースに託すと、次は中心静脈カテーテルの挿入を必要としている児のために準備を始めます。

 これは、ある日の午後における私の仕事の一場面です。現在、私は新生児ナース・プラクティショナー(nurse practitioner;NP)として、アメリカはテネシー州ナッシュビルで新生児集中治療に携わっています。1987年に日本を離れたとき、「将来は新生児NPになりたい」などとは決して思っていませんでした。そんな職業の存在自体、知らなかったのです。


高校2年生で聴いた講演の刺激

 私が医療という世界に初めて引き込まれ、アメリカで看護を学ぶという方向に傾いたのは、高校2年の秋、あるアメリカ人外科医の家族の講演を日本で聴いたことがきっかけだったかもしれません。

 その外科医と奥様は、チームとして海外の医療活動に長年取り組まれている方々でした。また、その娘さんはファミリー・ナース・プラクティショナーと助産師の資格をお持ちで、ご両親とは独立して全く別の国で医療活動に励んでおられました。まさに、全員で世界を飛び回っているような家族でした。講演では、 ご家族がアフリカ諸国、南アメリカ諸国、フィリピン、ミクロネシア諸国などで医療活動を行っている様子が、たくさんのスライド写真で紹介され、私はビビッドな刺激を受けたものです。

 その外科医は、奥様を次のように紹介されました。「私の妻は看護学部を出ていますが、ただの看護師ではなく、麻酔業務を担当できる訓練を受けており、私の片腕としてどこの国へ行っても、急にオペが必要になれば患者に麻酔を提供することができるのです。妻がいなければ、私の活動範囲は大幅に狭められるでしょう」。


 また、娘さんについては次のように語られたことを記憶しています。「私の娘は診療ナースの教育を受けており、幅広く患者の診察や治療を行う知識と技術を持っています。今は別々の国で活動をしていますが、大学院の教育を受けた後、複雑ではない外科的処置を学ぶために私と一緒にしばらく活動していました。彼女が南米で活動する地域は、カヌーなしでは街へも出て行けないジャングルの奥地なので、彼女が対応できないケースはただちに治療不可能ということになりかねないからです」。

 自分の入院経験や従兄弟の死などの体験はあっても、家族に医療者がいるわけでもなく、看護師の裁量権に関する知識も全く持っていなかった高校2年生の頭には、看護師が麻酔をかけたり、診療に参加したり、医師の夫と医療チームを組んで活動したりといった話は、特に不思議なことには聞こえませんでした。そして、このときのお話が、「看護を学べば世界のコミュニティーへ医療を提供する知識と技術を習得できる」という認識を私の中にもたらしたのだと思います。

 娘さんも短くお話をされましたが、実はこのときが私にとってNPの講演を聴く最初の機会だったと気づいたのは、それから約8年後でした。私はアメリカで大学を卒業する寸前、この外科医夫妻が率いる医療チームに参加して、ハイチで3カ月間の医療支援活動をする機会に恵まれたのですが、そこでご家族の話を詳しく伺って、娘さんがNPだと分かったのです。

 ハイチでは、執刀される先生の補助ができるように縫合などの指導をしていただきました。現地のナースに麻酔指導をされていた奥様も、既に若くはありませんでしたが、生き生きとしておられました。私は、ご夫妻が医療を通して様々な国の人々とつながり、彼らの生活にまでインパクトを与えていく様子を目の当たりにしたのです。ご夫妻とも既に他界されていますが、2人の医療へのスピリットは生き続けていると感じます。


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【大きな刃物で腹部に傷を負った患者のオペで、縫合の補助をしているところです。この前にミカンの皮を使って特訓を受けましたが、ハイチでだからできたことです。】


看護教育が確立しているアメリカへ

 講演を聴いてのち、私は将来の進路を求めて試行錯誤することになりますが、正直なところ、当時の状況の細部は記憶に残っていない部分もあります。看護を学ぼうという方向へ自分の気持ちが傾き始めた1985年頃は、日本に看護大学は5指で数えるほどしか存在せず、大学レベルの看護教育が確立されているとは決して言えなかった時代でした(正確な数については記憶が定かではありませんが、当時の新聞記事で日本の看護大学の数はフィリピンよりも少ないと書かれていて驚いた覚えがあります)。だったらアメリカの看護学部に進学しようという方向へ動き出した私は、後戻りできない道を歩き始めた感がありました。

 1987年8月、母親と弟と従兄弟に見送られてデトロイト行きのノースウエスト航空機に乗り込み、自分の席に落ち着いた21歳の私は、飛行機の行く先が確実に決まっているのと同様、誰かが私の将来を知っているかのような錯覚を覚えていました。しかし、このときに確実だったのは、正式な看護学部生としてではなく、あくまで「看護学部志望生」として入学許可が下りているということのみでした。

 入学許可をくれたミッション系のボブ・ジョーンズ大学(サウスカロライナ州)は、何年もの間、看護学部卒業生の正看護師(RN)試験合格率が州でトップという成績を挙げており、理系の教育に厳しいので、「外国人学生は卒業まで5年かかると思って覚悟して来るように」と言われていました。

 私は、高校1年生の夏頃から、アメリカのTime誌やNewsweek誌なんかをかじり読みするようになっていました。1本の記事を読むと、知らない単語があっと言う間に30くらい出てきます。四苦八苦しながら雑誌1冊を数カ月かけて読んでいるうちに、受験用に勉強させられている英語と本場の英語になぜかギャップがあるのが気になり始め、日本で大学進学することへの違和感も覚えるようになりました。

 ですから、とにかくアメリカの看護学部に進学してしまって、それから先は英語をしっかりと自分の物にして、決して自分の口から言葉の壁を言いわけにすることがないようにしたいと思いました。とりわけ医療の世界では、コミュニケーションの問題は、安全や質に大きく影響を与える可能性をはらんでいるからです。

 この連載では、アメリカで看護を学んでいるときのエピソードや、現在の新生児NPという仕事の様子などを書いていきたいと思います。決して平坦な道ではありませんでした。癌のためにキャリアを途中下車せざるを得なかったことや、バーンアウトに陥って看護をやめたいと思ったこともありました。そうした経験を経て、今、NPとして患児やその家族に貢献できる環境に身を置いている自分を、とても幸せ者だと思っています。
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