2011年06月14日

医師国試がないイギリスの、タフな卒業試験

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター


 私は東京生まれの日本人ですが、幼少時を含めると合計11年間イギリスで暮らしていました。医学教育をイギリスで受け、卒後初期研修を終えてから帰国し、日本でも医師として働きましたが、医学教育や医療制度だけでなく、医師の働き方や考え方がイギリスと全く異なっていたので大きな驚きを覚えました。その後、アメリカの医療にも触れてみて、アメリカもまたいろいろな面で違っていることが分かりました。

 医療について考えるとき、私の根幹にあるのはイギリスの医療です。その視点から、私の経験に基づいたイギリス医療を紹介するとともに、日本およびアメリカの医療について、私が学生・医師としての経験から感じたことをお伝えしたいと思います。

イギリスの医師は「皆等しく優秀」
 イギリスには医師国家試験は存在しません。イギリス国内の医学校の卒業試験に合格すると自動的に仮の医師免許(provisionally registered medical practitionerの証書)が与えられ、卒業後1年間の研修を終えると本免許(fully registered medical practitionerの証書)がもらえるのです。

 また、イギリスでは「医師は皆等しく優秀である」という考え方が大前提にあります。つまり、家の近所のクリニックでも、大きな大学病院でも、医師は皆、医学校の定める合格基準を満たした「優秀な」医師なのです。

 私が学んだ医学校(キングス・カレッジ・ロンドン)では、卒業試験の各自の結果が具体的に何点だったか、発表すらされませんでした。発表されたのは、合否判定と「自分が400人の同級生の中で上位何%くらいの位置にいる」という漠然とした情報だけでした。個人的には、もっと具体的に何点とって何位だったのかを知りたいとも思いましたが、それが卒業後の研修医のポジションを得るための競争には一切考慮されないことが分かっていたので、「まあいいか」と自分を納得させました。

リアルな睾丸水腫に心雑音…、30ステーションを4時間で回るマラソン技能試験
 イギリスでは各大学が独自のカリキュラムを組み、独自の卒業試験を課します。医師免許を取得するに当たって、日本やアメリカのような全国統一試験はありません。キングス・カレッジ・ロンドンの卒業試験は、3時間の筆記試験が2つと4時間近くにわたる臨床技能試験(objective structured clinical examination;OSCE)から成っていました。臨床技能試験はとても厳しいものでした。「皆等しく優秀」であるためには、厳しい合格基準を定めなければならないのが道理です。私の学年では400人中20人ほどが落第しました。

 学生時代は、とにかく毎日、病棟や外来クリニックに足を運んで、OSCE合格に必要な技能の練習に明け暮れていました。中でも特に優れた修練の場は、プライマリケアを担う開業医(general practitioner;GP)の小規模な医院でした。多くの患者に対応するのにてんてこ舞いの大学病院と異なり、比較的時間にゆとりのあるGPの先生は、一対一で問診の取り方から診察の仕方まで丁寧に教えてくれたので、とても有意義な時間を過ごすことができました。

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【ロンドン南東部の町ニュークロスで開業しているGPのアーヴィン先生と筆者。学生時代、この医院で8週間にわたる実習を行い、OSCE合格に必要な臨床技能の直接指導をしてもらいました。この写真は院内の診察室で撮影したものですが、GPは白衣を着ないので、実習を行う医学生も白衣を着ないように指導されます。】

 それでは、具体的なOSCEの内容を振り返ってみます。学生は30人を1グループとする小グループ単位で受験します。1カ所当たり7分30秒の持ち時間がある「ステーション」が30個用意されていて、それを30秒のインターバルを挟んで次から次へと回ります。最初のいくつかのステーションでは、処方箋の記入、切創の縫合、点滴のセットアップの仕方などが試されましたが、これらは十分に練習を重ねておいたので、無難にこなすことができました。

 意気揚々と次のステーションに行くと、なんとシナリオには「睾丸の腫れを訴える70歳男性の陰部を診察し、所見を取れ」と書いてあります。まさか本物の睾丸を診察させられるとは予想していなかったので、もう一度読み返してみましたが、やはり間違いはありません。

 恐るおそる中に入ると、本当に睾丸が腫れている老年の男性がいました。診断は睾丸水腫で、ペンライトによる光の透過性により睾丸腫瘍との鑑別をさせるのが趣旨だったようですが、いくら本物志向のイギリスとはいえ、ここまで徹底しているとは思いもよりませんでした。

 結局、睾丸をあらわにして横たわる男性を前に心の動揺を隠し切れず、右手にペンライト、左手に腫れ上がった睾丸をつかんだまま、まごついていたところ、試験監督が見るに見かねたらしく、私の手からペンライトをひったくると、光が透過することを手際よく示してくれ、「な、透過性があるのが分かるだろう? さあ、診断は?」と助け舟を出してくれました。この献身的な男性は30人もの学生に睾丸を診察されたのかと思うと、心が痛みました。

 続いては、本当に心臓手術の既往がある男性患者の聴診です。心雑音の聴診は試験に出やすいので当然予想はしていましたが、私の過ちは開心術後の心雑音の練習を十分に行っていなかったことです。後で同級生に聞いて分かったことには、正解は僧帽弁置換術後で、機械弁の音がしていたそうなのですが、僧帽弁の雑音ということまでしか分かりませんでした。3年生のときに心臓血管外科の実習があったのですが、もう少し積極的に術後患者にアプローチすべきだったと後悔しました。

 ほかにも、脾腫のある老年女性の腹部所見、足の感覚障害を持つ糖尿病の男性の神経学的所見、難聴を訴える患者の聴覚所見、高血圧を持病に持つ患者の眼底所見の取り方などが本物の患者でテストされました。 付け加えておくと、「担当看護師の態度が気に入らず怒っている患者への対応」や「乳癌スクリーニングで陽性だった患者に精査後の癌告知をする」といったコミュニケーションスキルの試験では、模擬患者が使われました。

 このOSCEでは4時間近くも集中力を持続させなければならないので、肉体的・精神的なスタミナが要求されました。2時間を過ぎたあたりから、だんだん頭がぼうっとしてきて、手技を行う手が震えてきたりしたのをよく覚えています。ステーションの途中には、休憩場や水飲み場も用意されていたほどです。

 もっとも、この試験で大変なのは何と言っても、付き合わされている本物の患者さんです。さすがに安定した慢性疾患の患者さんに限られていますが、4時間にわたって30人の学生に同じことを繰り返し行われるので、相当な負担がかかっていたことでしょう。相応の謝礼をもらっているのでボランティアではないのですが、それでも「献身的な」協力といえるでしょう。彼らのおかげで今の私がいるのですから、本当に感謝しています。

 最後のステーションの終了を告げるベルが鳴ったときは、その場にいた試験監督や患者も満面の笑みを浮かべ、受験者の私と共にお互いの頑張りを称え合いながら固い握手をしました。それまで重苦しかった試験会場全体の雰囲気が一気に明るくなり、歓声に包まれました。この時点ではまだ合否は分からないわけですが、とにかくほっとしたのを覚えています。

 このように、キングス・カレッジ・ロンドンの試験では、模擬患者に加えて本物の患者も診察しなければなりませんでした。本物の患者を診察できて初めて「優秀な医師になる見込みがある」こととなり、仮の医師免許が与えられる仕組みになっているのです。

すべて模擬患者のUSMLEは気楽なもの
 私はアメリカでUSMLE(United States Medical Licensing Examination)STEP2 CSを受けて合格しましたが、診察するのは全員が模擬患者と分かっていたので、非常に気楽なものでした。本物の所見はほぼ確実に存在しないと分かり切っているわけですから、マニュアルに書かれた通りの動きをすれば合格できるわけです。

 OSCEを全国統一試験として行うには、試験そのものをシンプルかつ公平にしないといけないので、模擬患者のみという形式はやむを得ないでしょう。しかし、イギリスでは、各医学校が責任を持って独自の試験を行うことで、本物の患者に協力してもらうことができ、「皆等しく優秀」な医師を輩出するシステムとして成立しているのです。

 次回は、連載タイトル「誰もが“無料”で医療を受けられる国」とはどういうことなのか、ご紹介したいと思います。
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