2011年08月22日

ルーチン検査・手術は18カ月待ち!

―イギリス医療を支えるナショナル・ヘルス・サービス(NHS)

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター

 今回は、この連載のタイトルの一部にもした「誰もが無料で受けられる」というイギリスの医療制度について、私の医学生・研修医時代の経験を踏まえて紹介したいと思います。

「えっ、日本では病院で会計するの?」―日英の医療制度の違い
 イギリスの医療制度が日本のそれと似ている点は、「国民皆保険」を前提としているところです。定職を得て給与をもらっている人については、そこから「保険料」に相当する税金が天引きされる仕組みになっています。これはnational insurance contributions(筆者訳:国民健康保険負担金)と呼ばれています。日本の場合、国民健康保険組合以外にも様々な保険者が存在しますが、イギリスでは基本的にはナショナル・ヘルス・サービス(national health service;NHS)一種のみです。

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【ロンドンの中心部、4月にロイヤルウェディングが執り行われたウエストミンスター寺院の近くに位置する聖トーマス病院。筆者はここで医学生時代の臨床実習を行いました。「無料」の医療が、年中無休24時間、提供されています。青地に白文字の「NHS」ロゴは全国共通のものです。】

 子どもや学生、無職の人、定年後の高齢者などは、national insurance contributions、および所得税を納める必要はありません。それは外国人であっても同じことです。私も医学生時代は税金を払っていなかったわけですが、医学校を卒業して研修医になり、給料をもらい始めてからは、税金を納めるようになりました。「この税金は、自分自身の医療をカバーするだけでなく、税金を納めない、または納められない人たちの医療をもカバーしているのだ」と思うと、イギリス社会の一員としての責任を感じたものでした。私が初期研修医だったときは、給与から約9%がnational insurance contributionsとして、約15%が所得税(income tax)として天引きされていましたが、税率は年齢や収入によって異なります。

 さて、日本とイギリスの医療制度の大きな違いの一つは、医療行為を受ける時点において、イギリスでは患者負担額がゼロである点です。これを英語では“free at the point of healthcare delivery”と言います。日本では患者に応じて自己負担の割合が決まっているし、アメリカで医療行為を受けるときにも10〜20ドル程度の“co-payment”(加入している保険の契約内容によって異なる)を患者が支払います。

 例えば、イギリスで近所の開業医(general practitioner;GP)にかかったとします。診察を受けて、薬の処方箋をもらい、クリニックの受付に戻ると、そこに「会計」というものは存在しません。必要があれば次回の診察の予約を取りますが、そうでなければ後はもう帰るだけです。薬代はかかりますが、それはGPに支払うのではなく、薬局で薬を購入するときに薬局に支払います。この仕組みは大きな大学病院であっても同じです。

 ですから、私が研修医としてキングス・カレッジ・ロンドン附属病院で勤務していた頃は、「会計伝票」というものを見たことがなく、考えたこともありませんでした。患者が病院でお金を支払う必要はないのですから、医師が現場で行う医療行為に会計伝票が逐一ついて回ることはないというのが当たり前だったのです。実際には、患者ごとにかかった医療費は計算されていますが、病院の事務スタッフがすべて処理するもので、医師や患者の目に直接触れることはありませんでした。研修中、ホームレスや不法移民の患者を数多く担当しましたが、そうした患者たちの医療費を心配する必要が全くなく、医療行為に集中することができました。

 イギリスでの卒後研修を経た私が日本に来てまず驚かされたのは、患者が外来を受診した後、または退院時に「会計」を済ませなければならない点でした。東京で研修を始めて間もない頃は、イギリスにいたときの癖が抜けず、「患者がお金を支払う必要がある」という考え方になじめませんでした。

 例えば、薬剤の点滴投与や創傷の処置などを行った際に、使用した備品の記録を会計伝票に添付するのを忘れ、看護師や事務スタッフからお叱りを受けることがよくありました。何度か、担当患者から「会計伝票ができていないから退院できないと言われた。いつまで待たされるのか?」と問い合わせを受けたこともありました。当然ながら、平身低頭で事務手続きの遅れを詫びましたが、こんなことはイギリスではあり得ないことでした。

 また、「日本で病院にかかるのには、ずいぶんお金がかかるんだなあ」とも感じました。初診なら「初診料」がかかるし、救急外来を受診したら「救急受診料」(あるいはそれに準ずるもの)が必要です。はたまた、うっかり保険証を所持していなかった場合は、いったん10割負担しなければならないのが原則です。申請すれば自己負担分を控除した額が後で還付されるにしても、急病での緊急受診などを考えると、「イギリスのように『受診時に支払うお金はゼロ』と最初から分かっている方がずっと安心だなあ」と思ったものです。(もっとも、この考えはアメリカに来てから変わりました。「救急車が無料で、いつでもかかりたい医師にかかることができ、保険証を忘れても受診させてくれる日本は、なんてありがたいんだ」と思うようになりました)

タダより高いものはない?
 日英米の医療制度を比較してみると、病気になったときに一番安心して病院に行けるのはイギリスの制度だと思います。少なくとも費用の面では。なんと言っても「無料」ですから。しかしながら、「タダより高いものはない」と言うべきか、財源確保の難しさから問題点も数多くあります。

 第1の問題点は、大学病院での外来診察や検査の待ち時間がとにかく長いことです。特に、緊急性の低いルーチン検査や手術の場合、18カ月待ち! などという冗談のような状況がしばしば起こります。

 私が外科研修中に外来を担当したときのことです。比較的小さな鼠径ヘルニアを主訴とする60歳の男性がGPから紹介されてきました。上司とも相談の上、日帰り手術を行うことにして、予約票を記入し始めました。そこには「オペの緊急度は?」という項目があり、「Routine」「Soon」「Urgent」の3つの中から1つを選ばなければなりません。

 その時点では嵌頓のリスクは低いと判断しましたが、“Routine”にしてしまうと18カ月待ちだろうと推測し、“Soon”にチェックして提出しました。その後、オペ部門に確認したところ、この患者の手術が12カ月後に予約されたと言われて、「なるほど、これがNHSか…」と複雑な気持ちになったものでした。

 ところが、その患者は手術予定日よりはるかに前、外来受診から2カ月過ぎた頃、嵌頓ヘルニアで緊急入院・手術となりました。結果から言えば、ヘルニアの治療は診断から2カ月の時点で行われたことになりますが、嵌頓して救急車で運ばれてきたわけですから、大変な苦痛だったと思います。日本だったら、診断が付き次第すぐに手術を行っているでしょう。このような残念なケースは、イギリスのNHSならではと言えます。癌のスクリーニング目的の内視鏡検査を1年以上待っているうちに癌が進行していた、ということも起こり得ます。

 第2に、本当に必要だと判断できる検査や治療しか行えないということです。

 そのため、現場にいる医師は、高額な検査や治療は極力避けるように指導されます。例えば、CTやMRIなどの画像検査です。特に、造影剤を使ったMRIは画像検査の中でも特に高額の部類に入りますが、こうしたものは適切な理由がない限りオーダーが通りません。オーダーが適切であるかどうかは、事務方ではなく画像診断医が判断します。

 また、高額治療と言えば慢性腎不全に対する人工透析や腎臓移植ですが、2005年の統計では、イギリス全土で約2万3000人が透析治療を、約1万8000人が腎臓移植を受けています[1]。透析は1人当たり年3〜4万ポンド、移植は約1万7000ポンドかかり、これらの治療費だけでNHS全予算の3%を占めています[2](1ポンド=130円程度)。このような治療を必要とする患者の割合は全人口の0.05%に過ぎないことに鑑みて、非常に高額であることが問題となっています。コスト削減のため、人工透析を減らし、腎臓移植の比率を増やしていくことが必要とされています。

 第3に、通常の診療では、患者は自分の登録したプライマリケア医(GP)にしかかかることができません。ロンドンなどの都市部では、GP1人当たりの登録患者は1500〜2000人程度なので、クリニックはいつも患者でごった返しています。患者1人当たりの枠は10〜15分程度なのですが、実際は20〜30分かけてじっくり診察を行うことが多く、徐々に遅れが生じ、早朝でなければ予約通りの時間に診察してもらえることはほとんどありません。

 予約を取るのも容易ではなく、かぜなどの緊急性の低い疾病でかかろうとしても、「1週間後の木曜日まで空きはありません」などと言われるのがオチ。結局、予約の日を待っている間に自然治癒してしまうことがほとんどです。

 GPによっては「予約外診療」の時間枠を設けている場合もあるので、予約なしの受診も可能ですが、その場合は早朝から並んでの順番待ちです。そうやって何とか受診までこぎ着けたとしても、かぜ程度では薬を処方してくれません。「薬局でかぜ薬を買って、水分を多めに補給し、自宅で静養するように」と、何のために並んだのか分からなくなるような指示をもらうのが関の山です。イギリスでは、かぜくらいでは医者にかからないのが常識なのです。

 このように書いてきますと、「イギリスの医療は、いわゆる社会的弱者にとっては申し分ないけれど、フレキシビリティに欠け、ある程度裕福で社会的地位も高い人たちにとっては必要以上の我慢を強いられる。あまり上等なシステムじゃないな」と感じる方がいらっしゃるかもしれません。

 しかし、そうはならないような「もう一つの医療制度」が、実は存在しているのです。それは日本にはほぼ存在しない「プライベート医療」のシステムです。国営のサービスであるNHSとは全く異なり、希望者のみが保険料を民間保険会社に支払い、その保険会社と提携してプライベート医療を専門に行う「プライベート病院」で診療を受けるというシステムです。次回は、この「プライベート医療」の仕組みについて、ご紹介したいと思います。

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【キングス・カレッジ・ロンドン医学部の卒業式は、ロンドン橋のたもと、テームズ川の南岸に位置するサザック大聖堂にて執り行われました。荘厳な雰囲気の中、医師としての第一歩を踏み出した喜びとともに、果たすべき社会的責任の重みを感じました。】

【References】
1)Ansell D, et al: UK Renal Registry, The Ninth Annual Report. The UK Renal Registry, 2006.
2)NHS Blood and Transplant: Cost-effectiveness of transplantation.
http://www.uktransplant.org.uk/ukt/newsroom/fact_sheets/cost_effectiveness_of_transplantation.jsp
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