2011年09月20日

待たずに検査したいなら、プライベート医療へどうぞ

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター

 前回はイギリス医療の根幹とも言えるナショナル・ヘルス・サービス(national health service;NHS)について書きましたが、今回はNHSと併存する「プライベート医療」を紹介します。

 卒業を迎える直前のある日、医学校に「ファイナンシャル・アドバイザー」と名乗る人たちが数人やって来ました。彼らは医学生を対象とした説明会を開き、卒後の「経済面から見た人生設計」と「資産運用」の仕方について簡単なプレゼンを行い、自分たちの会社の宣伝をしていきました。医学生時代は親からの仕送りや奨学金、バイトで稼いだ小遣いで暮らしてきた私たちにとって、お金のことについて長期的展望に立って考える機会はこれが初めてでした。

ファイナンシャル・アドバイザーが真っ先に説明するのは
 興味を持った私はその会社に早速アポイントを取り、ロンドンの金融街シティのど真ん中にそびえ立つビルに出向きました。リチャードという大柄な男性が丁重に出迎えてくれ、1時間にわたって、銀行口座の持ち方、投資の仕方、正しい生命保険・傷害保険の選び方などについて説明してくれた中で、真っ先に話題に上ったのが「プライベート医療保険」でした。

 彼の言い分はこうでした。「イギリスにはNHSという無料の医療サービスが存在していますが、すべての人にとって平等なシステムですから、あなたのように医師という社会的地位を持った人でも特別扱いはされません。外来診察や検査、手術を受けるのに、いちいち数カ月から1年も待てますか? しかし、ご安心ください。このプライベート医療保険に加入すれば、専用のプライベート病院で、NHSと変わらない一流の医療が、待ち時間ほぼなしで受けられるのです」

 「なるほど、そういう素晴らしいシステムがあるのなら、ぜひ加入しておきたい」と思わざるを得ませんでした。プライベート医療保険で有名なのは、例えばBUPA(イギリス最大手)が運営する保険です。税金で運営されているNHSと異なり、任意加入するもので、毎月一定額の保険料を支払う必要があります。

 毎月の保険料は、加入者の年齢や病歴、自己負担額の設定、選択するオプションなどによって大きく異なります。緊急疾患の診療のみなどカバー範囲が限定的なものだと50ポンド(現在のレートで約6200円)以下と比較的安価ですが、すべての疾患の診断・治療をフルカバーにすると150ポンド(あるいはそれ以上)と高額になってしまいます。

 例えば、BUPAには「診断のみカバー」「治療のみカバー」「診断・治療フルカバー」の3種類の保険があります。「診断のみカバー」の場合、開業医からの紹介状があれば、待ち時間ほぼなしで診察・検査を受けることができます。NHSにおける「ルーチン検査は3カ月待ち」という状況を回避するにはもってこいのオプションです。「治療のみカバー」の場合、既にNHS病院で診断は付いているものの、緊急性を要さない治療のためNHSだと手術が数カ月待ちなどという状況を回避するのに適したオプションです。「フルカバー」の場合、診断から治療まですべてをプライベート病院で迅速に行え、治療費制限なしのオプションを選べばどんなに高額な治療であっても受けることができます。しかし、このオプションはかなり高額になるので、よほど懐に余裕のある人でないと加入することはないでしょう。

ハーレー・ストリートでの開業は究極のステータス?
 前回から比較の例として示している待ち時間のほかに、NHS医療とプライベート医療とはどう違うのでしょうか? 提供される医療の質という点では、おそらくどちらも同じでしょう。しかし、クオリティ・コントロールという観点からは、NHS医療の方が優れていると思います。

 なぜなら、NHS病院でコンサルタント(上級専門医)として患者を診ることができるのは通常、NHS病院で8〜10年程度かけて各分野の専門医認定機関(例えば、外科ならRoyal College of Surgeons of England、内科ならRoyal College of Physicians)が定める正規の卒後トレーニングを修了し、コンサルタントになるための資格試験に合格した医師に限られます。この「コンサルタントにつながる正規の卒後トレーニング」を受けられる人数には国が制限をかけているため、医師なら誰でもコンサルタントになれるわけではありません。対して、プライベート医療ではそのような制限はなく、医師免許さえ持っていれば誰でも開業できるからです。

 また、NHS病院では、医学生、初期研修医(foundation year doctor)、後期研修医(specialist trainee)、コンサルタントで構成するチーム医療が確立しているのに対して、プライベート病院では、コンサルタントの医師1人と少人数のスタッフのみで診療を行っていることが多いのです。

 プライベート医療保険は通常、それ専用の病院を持っています。BUPAなら、ロンドン市内にあるクロムウェル・ホスピタルです。また、劇場街のウエスト・エンドと動物園で有名なリージェンツ・パークとの間の地域には、プライベートクリニックがずらりと並んだハーレー・ストリートという通りがあります。どのクリニックにもきらびやかな金のプレートが掲げられていて、いかにも高級感たっぷりです。イギリスの医師にとって、このハーレー・ストリートで開業することは、キャリアの中で究極のステータスと考えられています。これらのプライベートクリニックは、通常はNHSとは無関係です。

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【「ハーレー・ストリート」という名前は「プライベートクリニック」と同義語と言っていいほどです。この通りの両側には、端から端までプライベートクリニックがずらりと並んでいます。】

 しかし、例外的ではありますが、NHS医療とプライベート医療が共存する場合があります。私がキングス・カレッジ・ロンドン病院で外科・整形外科研修をしていたときのことです。たくさんの病棟の中で、一つだけ特別な存在の病棟がありました。ガスリー・ウイング(Guthrie Wing)と呼ばれるその病棟はプライベート医療保険の加入者が入院する専用病棟で、基本的に個室となっており、上司のコンサルタントからは「この病棟の入院患者には必ず丁重な応対をするように」と厳しく指導されていました。通常のNHS病棟では、コンサルタントが回診をするのは週1〜2回(加えて手術直後)ですが、この病棟の患者に対してはほぼ毎日回診を行う念の入れようでした。私の印象としては、プライベート医療の患者は「大切なお客様」という扱いを受けていました。

 ちなみに、当時の私のような初期研修医にとっては、どの保険の患者であっても同じように大事であり、すべての病棟で全力をもって仕事に当たりました。むしろ、プライベート医療の患者を特別扱いしなかったので、彼らからすれば不満だったかもしれません。

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【いずれもロンドン南部の町デンマークヒルにあるキングス・カレッジ・ロンドン病院の外観です。左はプライベート医療保険の専用病棟、ガスリー・ウイング(Guthrie Wing)。1937年に建てられたため、れんが造りで古めかしい印象が漂います。内部の設備も相応に古く、プライベート医療と言っても全くプレミアム感はありません。右はNHS病棟のゴールデン・ジュビリー・ウイング(Golden Jubilee Wing)。2002年に竣工したモダンな建物で、内部もとてもきれいで便利に作られており、現代医療に相応しい最新設備が整っています。自分が患者だったら、こっちに入院したいと思っていました。NHS医療は無料ですが、必ずしも施設がプライベート医療に劣るわけではないのです。】

NHS病院で診察し、自分のクリニックを紹介
 卒後トレーニングを終えた医師にとって、プライベートクリニックを開業することは大きなステータスとなります。が、同時に、開業する際にはNHS病院でのコンサルタント職に就いていることが事実上の大前提となります。NHS病院でコンサルタントになれるほどの実力と経験を持った医師でなければ、どんなにたくさんお金を投資して高級ホテルのように美しいクリニックを開いたところで、患者は誰も来てくれないからです。

 開業したからには、患者を呼び込まないと経営は成り立ちません。そのため、プライベートクリニックの医師たちは自分の売り込みに力を入れています。クリニックのウェブサイトを見ると、各医師の卒業大学、卒後のトレーニング歴、獲得した専門医資格、現在勤めるNHS病院での肩書き、研究歴などがびっしりと書いてあります。私が外科研修を行ったNHS病院に勤めている外科医の1人はハーレー・ストリートで開業していますが、以下のような宣伝の仕方をしています。

・専門分野:大腸直腸外科、癌治療、内視鏡手術
・取得済資格:医科学士号、医学士号、イギリス外科専門医
・勤務先NHS病院:キングス・カレッジ・ロンドン病院(大腸直腸外科コンサルタント)
・研究分野:大腸直腸癌の内視鏡的手術、大腸癌スクリーニング、大腸内視鏡、炎症性大腸疾患の診断と治療
・経歴:イギリス内で卒後外科研修を修了後、アメリカ南カリフォルニア大学およびメイヨークリニック(フェニックス)にて大腸直腸癌の内視鏡的手術の専門トレーニングを受け、2008年より現職。

 医学生時代、外科の実習中に外来クリニックを見学する機会がありました。そのときの指導医(クリニックを開業する一方で大学病院にも勤務している)は、大学病院に来て消化不良を訴える患者に上部消化管内視鏡検査を勧めるとき、次のように話していたのをよく覚えています。

 「あなたの症状からすると、おそらく胃あるいは十二指腸に炎症や潰瘍がある可能性があり、内視鏡ですぐに検査する必要があります。ところで、あなたはプライベート医療保険には加入されていますか? 加入されているなら、朗報があります。
 もし、この検査を当大学病院においてNHS保険で行うとなると、通常3カ月程度の待ち時間がありますが、私のプライベートクリニックに来ていただければ、来週にでも検査することができます。検査するのはどちらの病院でも私なので、心配はご無用です。いかがでしょうか?」

 なるほど、こうやってNHS病院から患者を呼び込むわけか…。この場合、患者がプライベート医療保険に加入していれば断る理由もないですし、お互いにとってwin-winの状況が生まれるのです。

 開業後、プライベート診療が無事に軌道に乗ってくると、医師の収入は大幅にアップします。医学生時代にお世話になったキングス・カレッジ・ロンドン病院神経内科のポロック先生は、イギリス南東部のケント州でプライベートクリニックを週1日だけ個人で開業していて、毎週木曜日は大学病院に来ず、プライベート診療に力を注いでいました。あるとき、たまたま給料の話になり、先生はざっくばらんにこう言いました。

 「君たちも、頑張って卒後トレーニングを終えたあかつきには、私のように開業できるようになる。そうすると、給料が最低でも倍になるぞ。私のプライベートクリニックでは、患者1人当たり、40分くらいの診療で250ポンド(当時のレートで5〜6万円程度)の収入になる。1日10人診察すれば、それだけで2500ポンドだ。これは私が病院(キングス・カレッジ・ロンドン病院はNHS病院です)からもらっている1週間分と同じくらいの額なのだよ」。

 「週1日の仕事でNHS病院1週間分の給料なんてすごい!」。当時の私は衝撃を受けました。

 このように、イギリスのプライベート医療は、かかる患者にとっても診療する医師にとっても「ステータスシンボル」なのです。必然的に、プライベート医療にかかれない人たちとの間には「医療格差」が生じてしまうわけですが、それでもアメリカのように「保険料が払えないから医療にかかれない」という状況は生じません。たとえお金がなくても、NHSという「一流」の医療が受けられるのです。すぐに受けられるという保証はありませんが…。

 逆に、努力してプライベート医療保険料を払えるだけの収入を得られるようになった人は、NHSの待ち時間を大幅にカットできるすべを手に入れることができます。2010年の時点では、何らかのプライベート医療保険に加入しているのはイギリス国民の10%未満とされています[1]。

 医療格差はないに越したことはないと思いますが、現状においては、NHSだけですべての患者を診ることは財政的にも時間的にも不可能です。NHSとプライベート医療が併存することで、懐に比較的余裕のある患者をプライベートに回すことは、NHSの負担を軽減することになり、保険料を払えない(または払わなくてよい)患者が「無料」で医療を受けられるシステムを維持できるのです。

 とはいえ、NHSを今後も維持していくには、財政の合理化を続けなければなりません。そのため、経営サイドは時に現場の意向とは相反するような厳しい方針を打ち出すこともあります。次回は、私がキングス・カレッジ・ロンドン病院で初期研修中に体験した、「経営サイドと現場医師の対立」について紹介したいと思います。

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【筆者はキングス・カレッジ・ロンドン病院で外科・整形外科研修を行いました。この写真は、ガスリー・ウイングのある建物内のドクターオフィスにて、同期の整形外科研修医と撮影したものです。】

【References】
1)Key Note Media Centre: UK residents feel loyalty towards the NHS….
http://www.keynote.co.uk/media-centre/in-the-news/display/uk-residents-feel-loyalty-towards-the-nhs/?articleId=531
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