2011年09月26日

「5時になったら帰れ」と言われても…

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター

 前回までイギリスにおけるナショナル・ヘルス・サービス(national health service;NHS)医療とプライベート医療について紹介してきました。今回は、私がNHS病院の勤務中に体験した、医師の労働形態をめぐる経営サイドと現場医師の対立について書きます。

 私が研修医1年目だった2004年の夏、研修医たちに大きな衝撃を与える出来事が起こりました。勤務していたキングス・カレッジ・ロンドン病院の経営者が突然、全研修医の労働時間を強制的に短縮し、それとともに給与も大幅に削減するという方針を打ち出したのです。

 経営サイドからの通達は、「全研修医は夕方5時になったら、あらゆる仕事をやめ、残務は当直医にすべて引き継ぎ、速やかに帰宅すべし」というものでした。1年目の研修医は宿直業務から完全に外され、平日の当直業務は夕方5時から夜9時までに限定されました(週末当直は朝9時から夜9時まで)。そして、給与はおよそ3分の1カットするというのです。研修医の過重労働を防ぐとともに、人件費の削減もできるため、一石二鳥だということでした。

 私たち研修医一同は納得できず、現場を知らない経営者の一方的かつ理不尽な方針だとして、一致団結して反対の意志を示しました。私たちが反発したのは、給与カットに対してというよりも、「5時になったらすべての仕事をやめて帰宅せよ」という無茶な注文についてでした。

the most hard-working intern in this hospital の名にかけて
 卒業後、私の最初の職場はキングス・カレッジ・ロンドン病院の外科(general and colorectal surgery)。ここでの研修は病院内で最も忙しい研修医のポストとして、医学生に恐れられていました。

 そうとは知らずに応募した私はこのポストにマッチしてしまい、最初は激務のために体重が52kgから48kgまで落ちました。同級生からは「お前、やつれてきているけど、ちゃんと飯食って、休みを取っているのか?」と心配もされましたが、自分としては心身共に充実した日々を送っていたつもりです。

 当時、研修医は私を含めて2人。3人の上級専門外科医(consultant surgeon)の指示を受けながら、5つほどの病棟で、多いときは60人程度の患者を受け持ちました。上級医3人はそれぞれ好きな時間に病棟回診を行うので、タイミングが悪いと3人同時に回診を行うこともありました。

 朝は7時15分くらいに病院入りし、その日の朝回診の準備をします(アメリカの外科医に比べたら、かなり遅い時間です)。7時45分から前夜の当直医より緊急入院患者の引き継ぎなどを行い、8時半頃から専門医(registrarと言い、consultantの1つ下の階級)とシニアレジデント(senior house officer)と共に朝回診に出ます。回診を終えると、その足で専門医とシニアレジデントは外来あるいは手術室へ直行し、私たち研修医は病棟に残って仕事をこなすという日々でした。

 夕方5時の時点では、まだ外来や手術が終わっていないことも多く、夕方6時とか7時からconsultantの回診が始まるといったことは日常茶飯事でした。当直でない日でも毎晩帰宅は9時頃でした。そのため、同期からは“the most hard-working intern in this hospital”という称号をもらったくらいです。

 そんな状況ですから、「5時になったら帰れ」というお達しが出ても、上級医を無視して帰るつもりは毛頭なかったですし、自分の担当患者に関する(緊急性のない)仕事を当直医に押し付けて帰宅するなど、あり得ないことだと思っていました。

 こういった思いを持ったのは私だけでなく、同期の研修医は皆同じでした。現場からの意向として、経営サイドに方針撤回の希望を申し立てましたが、予想通りに経営サイドはこれを黙殺。表向きは、研修医は「5時に帰宅」ということになり、給与カットも強行されました。後で知ったことですが、どうやら経営サイドには政府から圧力がかかっていたようで、EUの法律を順守し、医療費削減を達成するため、やむを得ずの措置だったようです。

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【同期の外科研修医たちと、キングス・カレッジ・ロンドン病院外科病棟の廊下にて。写真左から、ジャスティン(泌尿器科)、エリン(肝胆膵外科)、ドミニク(下部消化管外科)と筆者。筆者はドミニクとペアで3カ月間、院内で最も忙しい下部消化管外科の研修をこなしました。大変でしたが、毎日が充実していて楽しかったので、今となってはよい思い出です。】

当直業務は勉強でもあるけれど…
 給与カットという憂き目に遭っても、毎日の仕事量は変わりません。私は経営サイドの現場無視のお達しに従うことはせず、それまでと同様に毎日夜遅くまで残って仕事をしていました。

 当直でないときの時間外勤務は、自分の担当患者が対象なので、相変わらず終わりがありません。一番遅いときは夜中の0時を回って、最終バスに飛び乗り、ほうほうの体で帰宅したこともありました。シフト勤務をしている看護師からは、「あなたは朝も昼も夜も病棟にいるけれど、ひょっとしてここに住み着いているの?」とからかわれる始末でしたが、自分の仕事を全うするために病棟に残っていることは全く苦痛ではなく、むしろ充実していたと思います。

 最近は日本でも医師の過重労働を防ごうという意識が強くなってきていますが、欧州では特に労働時間は厳しく規制されています。もっとも、イギリスは欧州各国の中では、一般に労働時間が長いわりに給与は低いというお国柄で、医師の世界も例外ではありません。

 ただ、今もロンドンの聖トーマス病院で働く友人によれば、研修医の給与は相変わらず低く抑えられているものの、当直業務は比較的軽めに設定されるようになり、科によっては当直業務が全くない場合もあるそうです。私が東京慈恵会医科大学附属病院で2年間の研修をしたときも、研修医の当直業務は(外科を除いて)非常に軽めに設定されていました。「イギリスでも日本でも、研修医は守られているんだな」と実感しました。

 研修医の労働条件に配慮すること自体は悪いこととは思いません。しかし、研修医時代に当直業務の経験が不足していると、次のステップに進んだときにぶっつけ本番のかたちで1人当直に臨むことになるという現実も無視できません。研修医の経験、患者へのリスク、病院経営といった要素すべてのバランスを取ることの困難さは、イギリスでも日本でも共通の悩みのようです。

 NHS病院における緊縮財政のしわ寄せは、初期研修医を含めた卒後研修中の医師全員の給与カットのみならず、労働体系の大幅な変更、院内設備投資の縮小というかたちでも現れました。次回は、当直・宿直業務の減少に伴って増加傾向にある、医師の夜勤の制度について紹介します。
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