2012年01月05日

「白衣を着た歯車」にならないために今できること

市瀬 史
ハーバード大学医学部アソシエイト・プロフェッサー
マサチューセッツ総合病院麻酔集中治療科・麻酔医

 前回も書きましたが、私の好きな英語表現の一つに“make a difference”というフレーズがあります。直訳すれば「違いを作り出す」ということになりますが、ニュアンスとしては、「何か大きな仕事をして現状を変える、改革する」という方がぴったりはまると思います。医師・医学者のように高等教育を受けて専門職(profession)に就いた人は、誰もが「(自分の力で)現状を変えたい」という願いを心に秘めているのではないかと思います。

 ところが、現代の医療は言うまでもなく、医師だけでなく看護師、薬剤師、栄養士、事務管理者、研究者、製薬業界のスタッフなど多職種の集合体からなる一大事業です。臨床の世界に限って見ても、内容の高度化・複雑化、情報量の増大につれて、どんなに能力のある医師でも1人が知りうること、できることは相対的に小さくなってきています。

 高騰する医療費をコントロールしようとする政府や保険会社の強い圧力は、医療の内容の隅々にまで及び、医師の医学的な判断だけでは、薬の選択や治療方針すら決められなくなりつつあります。この傾向は世界規模で進んでおり、人口の高齢化と医療の高度化・複雑化により、この先、さらに加速することは間違いありません。これは、臨床に従事している医師ならば、洋の東西を問わず、誰もが感じていることではないでしょうか。

 この状況の中、専門職としての医師のキャリアもステータスも変わらざるを得ません。「赤ひげ」や「Dr.コトー」のように全てを1人でこなせる、いわば全能的な存在として医師が尊敬される時代は終わったのでしょうか。ともすれば、巨大な医療という機械の中の「白衣を着た小さな歯車」の一つのように感じてしまう医師もいるかもしれません。「白衣を着た歯車」になってしまったら、make a differenceもできず、いつでも取り替えがきく部品の一つになってしまいます。

 「それはそれで良し」とする考え方もあります。これからの医療はチーム医療が中心であり、医師も医療という巨大なサービス産業の一部分を支えることで満足しなければならないのかもしれません。「その中で自分にできることをやって、適当に金をもうけて快適に暮らせればいいじゃないか」という、内向きな議論が幅を利かせているようにも見えます。しかし、替えがきく「部品」である限り、いつ何時、よりコストが低く性能が勝る「部品」と取り替えられても文句は言えません。

 私は歯車にはなりたくありません。そのために、今、何ができるでしょうか。

make a differenceのためのアクション − ガワンデ先生のアドバイス
 私が勤務しているマサチューセッツ総合病院と同じハーバード大学医学部の関連病院の一つであるBrigham and Women’s Hospitalに、アトゥール・ガワンデという外科医がいます。この先生が2002年に出版した“Complications : A Surgeon's Notes on an Imperfect Science”という本は、アメリカではベストセラーになりました。日本語にも翻訳されたようですから(『コード・ブルー − 外科研修医救急コール』〔小田嶋由美子訳、医学評論社〕)、ご存知の方もいるかと思います。

 その後、2007年に出版された第2作“Better : A Surgeon's Notes on Performance”もアメリカでは大ベストセラーになりました。この本は、現状をより良いものにしていくために必要な人間の資質、仕事の仕方、考え方を、「医療の現場を例にとって、医師以外の人にも分かりやすく解説した」と絶賛されました。ガワンデ先生に直接聞いたところ、日本の出版社と交渉中だそうですから、邦訳も遠からず出版されるかもしれません。日本の医学生や若い医師たちにも、ぜひ読んでもらいたい1冊です。

 医療は驚くほど不完全な科学に立脚し、あきれるほどに分からないことだらけです。分野によっては、分かっていることの方が少ないと言ってもいいでしょう。しかも、医療を担う医師や看護師も人間である以上、必ず間違いを犯します。しかし、医師に求められるのは、その不完全な知識と技術を使って、完全に正しい判断をし、絶対に間違いなく治療行為を遂行することです。そして、少しでも間違いを犯せば、待っているのは社会的制裁です。

 第2作“Better”は、このあまりにも不完全、不確実、不公平な現状の中で、どうしたらより良い医療ができるか、良い医師・職業人になれるかを問いかけます。この本の素晴らしいのは、現状に絶望するのではなく、どうしたら変えていけるかという具体的なアクションプランが提案されていることと、著者のガワンデ先生のポジティブな情熱が伝わってくることです。不完全な情報に基づいての完全な仕事が求められるのは、何も医療に限った話ではありません。教育、政治、ビジネスなど、人間の営みすべてに共通する悩みです。だから、この本のメッセージは、医療者以外の人々にも広く受け入れられました。

 「白衣を着た歯車」(white-coated cogwheel)という表現も、実はこの本から拝借したものです。本の中で、ガワンデ先生が医学生に講義する場面があり、現状を改善していくために(あるいは改善できる人になるために)できること、すべきことを話すときに出てくる言葉です。述べられている実行可能なアドバイスについて、ここで全てを羅列することはしません。ただ、make a differenceのために必要だと思われる点で、私も共感できるメッセージのいくつかを抜粋して紹介します。

今できること1:興味をおぼえた何かを「数える」
 どんな領域であれ、現状を改善していくためにまず必要となるのは、何が問題なのかを、誰にでも分かる客観的なデータにすること(=数値化すること)です。医療に従事していると、「不思議だな」「面白いな」と感じる現象に必ず出合います。しかも、現在の知識ではうまく説明がつかないものがたくさんあります。そういう現象に出合ったら、まずはそれを数えましょう。

 何も大それたデータの集積である必要はありません。例えばそれは、ある薬や治療法が有効な患者の割合かもしれません。院内感染の発生数の年内変動かもしれません。問題の存在を数値化できれば、対策を立てる基盤ができます。

今できること2:他者と共有するために「書く」
 興味のあることを数えて何かが分かったら、その何かを書きとめることが大切です。といっても、いきなり長大な英語論文を書く必要はありません。自分に対する覚え書きでも構いませんが、できればなるべく多くの人に読んでもらい意見を言ってもらえるよう、意識して書きます。そうすることで、情報の整理ばかりでなく、文章を書く技術も向上します。

 書くことの大きな意義は、他の人にも自分が見つけた情報を共有してもらうことです。1人では何もできない問題でも、多くの人に理解されれば、解決は不可能でなくなります。

今できること3:変化を恐れず自分から「変わる」
 私たちは、ともすれば、現状に不満を持ち、問題があることを分かっていながら、誰か他の人が変えてくれるのを待っている傾向があります。私もそうですが、その方が圧倒的に楽だからです。しかし、他力本願でブツブツ不満を言っていても何も変わっていきません。今までと同じことを繰り返していても、時間がどんどん過ぎていくだけです。

 いきなり全てを変えるのは不可能でも、小さなことから変えるのは誰にでもできます。これまでやってこなかったこと、例えば「数える」こと、「書く」ことで、現状の一端が変わっていきます。その積み重ねが“make a difference”につながるのではないでしょうか。

20120813_ichinose.jpg
【Atul Gawande : Better : A Surgeon's Notes on Performance, Picador, 2008.】
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/57573293
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック