2012年01月12日

ラッフルズジャパニーズクリニック誕生(その2)

人生をかけたプレゼンは拍子抜け?

大西洋一
ラッフルズジャパニーズクリニック院長

 前回お話ししたように、日本人向けクリニック開業の件で、ラッフルズメディカルグループのルー・チュン・ヨン会長との面接を何とか取り付けたわけですが、さて、そこからが大変でした。

企画書の英訳で最初のヘルプ!
 面接までは2週間ほど。私は連日徹夜で企画書の作成に取り組みました。クリニックの具体的な事業内容から人事、予算、将来の展望など、ルー会長を説得するために入念な企画を立てました。

 当時は医局からシンガポールに派遣されて1年あまり。日本でクリニックの開設に携わったという経験はもちろんありません。シンガポール日本人会診療所で多少はクリニック運営にかかわった経験と、シンガポールで知り合った友人から仕入れた知識で何とか対処しました。

 問題は英訳です。初めから英文で作ればよかったのですが、あいにく当時の私には短時間でそんなことをこなすような能力はなく、手っ取り早く日本語で作ってしまったのです。英訳は業者にでも依頼すればいいと思っていましたが、40ページにも及ぶ文書の英訳を依頼するには時間がなく、費用も馬鹿にならないため、日本にいる友人に頼むことにしました。

 彼女は小学校時代にシンガポールに住んでいた経験があるのですが、彼女のお父さんはもともと石油のブローカーで、アラブ首長国連邦に家族で住んだ初の日本人だそうです。シンガポールでは会社を立ち上げた実績があります。彼女から事情を聞いたお父さんはとても興奮して、「それは面白い。ぜひとも引き受けよう」と承諾してくれたらしく、ほかの用事を全て後回しにし、3日3晩を費やして英訳を完成させてくれました。

 熟練ビジネスマンの視点から、「収支プランやマーケティングプランについてはよくできている」とお褒めの言葉をいただく一方で、「外国人向けのプレゼンテーションはまず最初に結論を明確に示すべき」といった注意もいただきました。この方のサポートがなければ、今の私はありません。ラッフルズジャパニーズクリニックの原点を共に築いてくれた協力者だったのです。

ゆずれなかった3つの条件
 こうしてできあがった企画書を携えて、完成したばかりのラッフルズホスピタルに向かいました。「シンガポールで開業できたらいいなあ」とぼんやり思っていたことが、現実味を伴ってきた瞬間でした。チェアマンオフィスにあるボードルームに通され、ルー会長が現れるのを緊張した面持ちで待っていると、彼はポロシャツ姿のラフないでたちで登場しました。土曜日の午後だったからです。

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【ラッフルズメディカルグループのルー・チュン・ヨン会長。】

 ここで少し、ラッフルズメディカルグループとルー会長についてご紹介しておきます。グループ誕生の第一歩が刻まれたのは35年前。大学を卒業して医師になったばかりのルー会長が、友人と共同で小さなクリニックを設立したのです。その後、グループのクリニックは2つになり、4つになり、だんだんと数を増やして、やがてシンガポール島内に30あまりを数えることになります。

 そして1998年、医療機関として初めてシンガポール株式市場に上場を果たしました。日本と違って、シンガポールでは医療機関も株式会社なのです。上場で得た資金を元手に、2002年には総合病院ラッフルズホスピタルをオープンさせました。そんなわけで、ルー会長はシンガポールでは立志伝中の人で、カリスマ経営者として名声を得ています。

 さて、面接の話に戻ります。私は先に面接を受けていた日本人の友人(連載第2回参照)から聞いて、ラッフルズホスピタルが抱いている構想をあらかじめ知っていました。「病院内に日本人部門を設立して、そこで日本人の診療を行う。健康診断は病院の健診センターを利用する。当初は日本人医師1人体制とし、患者が増えてきたらゆくゆくは増員を考える」というものでした。

 私がしようとしていた提案は、この構想のどの部分とも相容れないものでした。しかし、私が考える成功のためには、どうしても受け入れてもらわなくてはなりませんでした。面接が始まると、用意していた企画書を手渡し、ルー会長と役員たちの前で、つたない英語で説明を始めました。

 私の示した企画の中で、要となる提案は3つありました。まず1つ目は、ジャパニーズクリニックを病院の一部門ではなく別法人(別の医療機関)として、私とラッフルズホスピタルの共同で設立することです。日本人向けの医療は何かと特殊ですから、ラッフルズホスピタルのコンセプトそのままでは日本人になじみません。日本独特の医療法人という形態や社会保険に基づいて提供される医療サービスを知らないと、日本人に受け入れられる医療は提供できません。きめ細かく日本人のニーズに応えられるクリニックにするためには、病院から独立していなければならないと私は考えたのです。

 それに私自身、単なる雇われの身となるつもりはありませんでした。やるからには自分の考えを実現できる環境を作り、発言権のある立場になりたかったのです。出資の用意があることを表明し、「自分はリスクを取る覚悟があるのだ」と、やる気をアピールする狙いもありました。

 2つ目は、健康診断をジャパニーズクリニックの中で行うことです。ラッフルズホスピタルの健診パッケージは、検査項目が日本人向きではありませんでした。例えば、日本の健診では不可欠の胃透視検査がパッケージに含まれていなかったのです。それに、健診の中で診察だけ日本人医師が行えばよいというものではなく、リポートも日本語で作成しなければなりません。

 日本人のこういった特殊なニーズに応えるためには、やはり日本人医師が主体にならないと難しいでしょう。また、健診をジャパニーズクリニックで行えば、診療と健診の相乗効果で患者数の増加につなげることができるとも考えていました。

 そして3つ目は、医師は最初から2人体制でスタートするということです。診療と健診を両立させていくには2人は必要ですし、1人体制では休暇も取れません。

 これら3つの提案を病院側が受け入れてくれるかどうかが計画実現の成否を決める鍵でしたが、ルー会長は“very interesting”と何度も繰り返し、大した議論もなくあっさり承諾してしまいました。うれしいことではありましたが、何とも拍子抜けした思いでした。

ルー会長からの2つの質問に、何とつまらない答えを…
 このとき、ルー会長は私に2つほど質問をしました。私にも分かりやすいように、ホワイトボードに絵や単語を書きながら―。

 まず聞かれたのは、「ジャパニーズクリニックに産婦人科、小児科、整形外科、耳鼻科などの専門医を雇用して、ローカルの専門医とチームを組んで手術なども含めた診療に当たるというのはどうだ?」という質問でした。それに対しては、「シンガポールの日本人医師が与えられる免許は制限付きで、日本人患者しか診療できないので、現実的には難しい」と答えました。

 彼は「ふうん」と言って、それ以上は触れず、「他のアジアの主要都市にジャパニーズクリニックを作ることはどう思うか?」と、次の質問をしてきました。後にそのような仕事に携わることになろうとはつゆとも思わず、「日本人医師が現地の役所から免許をもらえるような地域は限られているので、こちらが作りたくてもなかなか思うようにはいかないだろう」。このときの私はネガティブな答えしかできませんでした。彼は黙ってうなずきました。

 今になってみると、ずいぶんとつまらない答えを返したものだなあと思います。よくよく考えれば、このときルー会長の頭の中は、シンガポールのクリニックについては決定済みになっていて、もっと先のことに及んでいたのでしょう。おそらくは、どこの馬の骨とも分からない私と会ってくれたのも、「自分から売り込みに来るぐらいだから任せてもいいだろう」と、会う前からほぼ決めていたからなのだと思います。

 それに気付かず、陳腐な回答をした自分を恥ずかしく思います。規制というものは将来変わるかもしれないし、妨げになるようであれば、変えるように働きかければいいのです。ルー会長が私に聞きたかったのは、どんな規制があるのかではなく、私がどんな将来ビジョンを思い描いているのかだったのでしょう。

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【ラッフルズメディカルグループのmedical directorメンバー(左から2人目が筆者)。】

開業資金を用立ててくれた大恩人
 面接成功の喜びをかみしめたのもつかの間、私の前にはさらなる大きな問題が立ちはだかっていました。それは出資金の工面です。面接の席では出資の用意があると大見得を切ったものの、当時の私には蓄えなど全くなかったのです。駄目でもともとで始めた話とはいえ、そんな状況での交渉など、ずいぶんと無謀だったかもしれません。しかし、元来楽観主義の私は、「いざとなれば金なんてどうにかなる」と高をくくっていました。

 現実に必要となってみると、ありったけのお金をかき集め、日本人会診療所から思いがけずいただいた退職一時金に、妻から借りた彼女の貯金を合わせても、まだまだ足りません。このままでは出資比率を下げるしか手がありませんでした。しかし、そんなことをしては、私の立場は弱まるばかりです。

 いろいろと考えをめぐらせた結果、研修医時代から大変お世話になっていた医局の先輩に恥を忍んで相談することにしました。第1回で紹介した、大学院を辞めて沖縄に行った先輩です。

 この先輩は、医局でのシンガポール行きの順番を私に譲ってくれた格好でもあるのですが、ことのあらましを説明したところ、非常に喜んでくれました。そして、大変ありがたいことに「お金を貸そう」と言っていただいたのです。しかも、「返せるようになったら返してくれればいい」と、無利息の出世払いで。もちろん、後年になってお返ししましたが、このときの先輩のご恩は忘れることができません。

教授の寛容と妻の理解が背中を押してくれた
 ほかにも私には解決すべき大事なことがありました。「シンガポールでの任期が終わったら、大学院に復学して研究をまとめる」という、医局の教授との約束です(こちらも第1回参照)。シンガポールにとどまるには、この約束を反故にしてもらわなければなりません。

 覚悟を決めて日本に戻って教授に面会させていただき、私がこれから何をやろうとしているのか、どんなことを目標としているのかを懸命に説明しました。そして、大学院を退学すること、医局人事を外れることを何とか了承していただきました。

 「では、これで医局を辞めさせていただきます」と言うと、教授は意外にも「医局の籍はそのまま残すように」と言ってくださいました。この取り計らいのおかげで、既に教授が退官された今でも、医局には私の籍が残っています。自分の帰れる場所が残っているというのは、とてもありがたいことです。

 シンガポールで働くチャンスを与えてくれたのも、シンガポールに残るチャンスを与えてくれたのも私の教授でした。私は今でも約束を守れなかったことを申しわけなく思うのと同時に、教授の懐の深い計らいに大変感謝しています。

 シンガポールでクリニックを始めたころの話を人にすると、「奥さんは反対しなかったの?」とよく聞かれます。「シンガポールに残ってクリニックを開こうと思うけど、どう思う?」と尋ねたとき、妻はこう言いました。「どうせ止めても聞かないでしょ?」―。さすがに、私の性分をよく分かっています。

 実際にラッフルズジャパニーズクリニックの開業にこぎ着けるまでには、まだまだ紆余曲折がありました。それらのエピソードは、またの機会にお話ししたいと思います。

 開業当初は医師・スタッフ合わせて5人だったクリニックも、今では本院に加えて2つの分院、日本人医師15人にスタッフ総勢40人という大所帯です。医師を含めて全てのスタッフを公募し、当初は書類選考から面接まで私が担当していました(現在は規模が大きくなったので、スタッフはマネージャーと副院長に任せ、医師のみを私が担当しています)。英語は話せず、お金もなく、自分一人では何もできない。それでも、たくさんの人の手助けをもらって、私はここまで来ることができました。

 英語が苦手だからと海外での生活や仕事に二の足を踏んでいる人はいませんか? やる気さえあれば、きっと周りの人が助けてくれます。ぜひ、あきらめずにチャレンジしてください。

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【ラッフルズジャパニーズクリニック(創業当時)の受付と待合室。】

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【ラッフルズジャパニーズクリニック創業当時のメンバー、総勢5人です(右から2人目が筆者)。】
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