2012年03月01日

長引く咳の原因は「ヘイズ」

日本で診ることのない症例にオロオロ(その1)

大西洋一
ラッフルズジャパニーズクリニック院長

 シンガポールという都市は非常に発展し整備されているので、衛生面でも特に問題はなく、東南アジアにありながら、いわゆる熱帯病と呼ばれる感染症などを見かけることはほとんどありません。「マラリアやアメーバ赤痢の患者が島内で発生」とのニュースをたまに聞くことがありますが、基本的にそれらは輸入伝染病です。

 そういった意味では、来院する患者の疾病特性は日本とさほど変わりません。もしシンガポールで診療に当たることになったとしても、日本で普通に外来診療をできる医師であれば、困ることはあまりないでしょう。

 もちろん、使用する薬剤は現地のものなので見かけや名前が違ったりしますが、成分的に同じものや類似薬もあるので、最初は戸惑ってもすぐに慣れます。そのほか日本と違うのは予防接種くらいでしょうか。これについても最初は勉強が必要ですが、それほど数が多いものでもないので、すぐに覚えるでしょう。

 とはいうものの、日本で出くわすことはないけれど、シンガポール独特の、わりとありふれた疾患というものはあります。それに絡めて、私がシンガポールの日本人会診療所に赴任して間もないころのエピソードを2つ、今回と次回にわたってご紹介したいと思います。

来院したのは専門の呼吸器の患者、いつも通りに診察を進めたが…
 シンガポールに赴任したとき、私は34歳でした。医師としては何でも一通り経験し、自信を持って診療に当たれるようになっていました。診療の点では何も心配していませんでしたが、一つだけ気がかりなことがありました。それは自分の外見のことです。当時の私は他人から若く(30歳程度に)見られることが多かったのです。

 シンガポールに来ている駐在員の中には支店長や現地法人社長を務めている方も大勢いて、彼らは私と同年齢ぐらいの部下を何人も持っています。彼らのような人生経験豊かなビジネスマンから見れば、実年齢よりも若く見える私は、医師とはいえ会社の部下と変わらない若造です。

 よい診療(特に外来)を行うには、医師の知識やスキルは言うまでもなく重要ですが、患者に信頼感や安心感を与えるという意味で、外見も大事な要素だと思います。シンガポールの医師は白衣を着ずにワイシャツとネクタイ姿で診療するのが普通のスタイルだったので私もそうしていましたが、白衣を着るとまるで研修医のように見えてしまっていた私にとっては幸いでした。また、近視で日常的にコンタクトレンズを着用していましたが、「仕事用の顔」を作るため、シンガポールに赴任してからわざわざ伊達眼鏡を作りました。

 ちょっと話がそれましたが、本題に戻ります。1つ目のエピソードは、赴任して2週目ごろのお話です。診療所のしきたりにはまだ慣れないものの、診療自体は日本と同じペースでそつなくこなしていました。そうしたある日、駐在員の奥様らしき40歳代後半の女性が来院しました。主訴は「一度出ると止まらない、長引く咳」でした。

 私の専門は呼吸器です。いつも通りの手順で、「痰や咽頭痛はないか」「熱は出ていないか」…と問診し、診察に移りました。患者の話しぶりから、「ははあ、この患者は喘息ではないかと心配しているな」と、内心思いました。症状や所見などから、喘息や現在活動性の感染症である可能性は低く、おそらくは気道感染後の長引くカタル症状か、気道粘膜に対する何らかの物理的刺激が原因の咳だろうと考えました。

「先生、ヘイズって知ってます?」
 詳しく覚えてはいませんが、おそらく私は「喘息の心配はいりませんよ。取りあえず指示通りに出されたお薬を服用していただければ治まってきますよ」といったような説明をしたのだと思います。すると、患者は不信感を隠さずに言いました。

 「先生はシンガポールに来られてどれくらいになりますか?」私は患者の突然の質問の真意をつかみかねながらも答えました。「2週間です」。すると患者は、「ははん、やっぱり」というような表情を浮かべながら、「先生、ヘイズって知ってます? 私の症状はヘイズのせいじゃないでしょうか?」と言われたのです。

 ヘイズ(haze)とは、インドネシアの熱帯雨林で起こる山火事や焼畑が原因の煙霧のこと。これが風に乗ってシンガポールやマレーシアまで流れ込んできて、ひどいときには空がかすんでしまったり、臭いがしたりします。結膜炎や鼻炎、気道炎症などの健康被害を起こすこともあり、社会問題、国際問題ともなって、たびたびニュースで報じられています

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【ヘイズにかすむ、高速道路沿いのビル街。】

 私もヘイズのことは知っていましたが、この診察のときには全く念頭にありませんでした。もっとも、それを考慮に入れていたとしても、診察・検査の進め方や処方内容はあまり変わらなかったでしょうが。

 患者にそう言われて、私のペースはすっかり乱れました。「シンガポールデビュー」したての私を見くびるような眼差しの前で、「もちろん、ヘイズは知っていますよ」と強がって見せるのが精いっぱいでした。結局は鎮咳薬と消炎酵素薬を処方し、しばらく様子を見てもらうことにしたところ、 症状はほどなく軽快しました。

 このときは「それならそうと、初めからヘイズのことを言ってくれればいいのに…」と思いはしたものの、患者さんに悪意はなく、「咳と聞いてヘイズを思い浮かべるのは、シンガポールの医師なら当然」という認識だったのでしょう。もちろん今の私は、朝起きたら窓の外を眺め、景色のかすみ具合から、「今日あたり、咳や鼻水の患者が増えそうだな」と予測を立てるまでに成長(笑)しました。
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