2012年05月30日

救急車を20分も足止めする跳ね橋が呼んだ悲劇

ロンドン中心部から46kmの「医療過疎島」にて

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター

 イギリスにおける研修医としての最後の職場はケント州のメドウェイ病院(Medway Maritime Hospital)でした。2005年12月から2006年2月までの産婦人科ローテーションでしたが、当時体験した医療過疎の島での産婦人科医療について書こうと思います。

「なぜ、こんなに時間がかかったんだ!」
 ローテーションが始まって間もない12月初旬。その日はlabour ward(出産病棟)の担当で、指導医や助産師と共に、産気づいた妊婦のトリアージ(お産が進んでいれば入院、進んでいなければ帰宅という判断)をしていたところ、当院をかかりつけにしている妊婦(妊娠8カ月)の夫から電話がかかってきました。

 助産師が応対したところ、どうやら妊婦に急激な腹痛と経腟出血が起こり、夫がパニックを起こしています。早期胎盤剥離が強く疑われ、スタッフ一同が色めき立ちました。すぐに救急車を呼んで病院まで来るよう指示を出して患者の到着を待ち、産科の主治医は外来クリニックを中断して出産病棟に駆け付け、緊急帝王切開の準備が進められました。

 患者は、病院から救急車で30分ほどの距離にある、シェッピー島(Isle of Sheppey)という小さな島の住民でした。救急車は先ほどの電話があってから10分以内には患者宅に着いているはずなので、私たちスタッフは40分後くらいには患者が運ばれてくるだろうと身構えていました。ところが、50分、1時間とたっても、救急車は到着しません。時間が勝負の疾患ですから、私たちは焦りました。

 ようやく最初の電話から70分後、救急車が到着しました。「なぜ、こんなに時間がかかったんだ!」と、主治医が患者を搬送してきた救護スタッフを怒鳴りつけると、彼らは無念の表情でこう言いました。

 「島と本土をつなぐ跳ね橋が上がってしまっていて、20分、足止めをくらってしまいました。こればかりは私たちにはどうすることもできません。何とか輸液で持ちこたえようとしたのですが…」。これを聞いて、その場にいたスタッフは全員、「それならば、どうしようもない…」というあきらめの表情を浮かべました。

 主治医は迅速に診察し、ただちに緊急手術が行われました。しかし、残念なことに妊婦と胎児は共に命を落としました。この状況では、救急搬送が最速だったとしても、胎児は助からなかった可能性が高かったでしょう。しかし、少なくとも妊婦の命は救えたかもしれません。

島内唯一の病院に集まる、島を出られない患者
 シェッピー島は、ロンドン中心部から東に46km、北海に注ぐテムズ川の河口に位置します(図1)。面積は93km2、人口は約3万8000人(2001年国勢調査のデータ)の小さな島です。一番大きな町には港と工業地帯があり、外国産自動車輸入の玄関となっているほか、鉄鋼や製薬、食品会社の工場が並び、島の経済を支えています。

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【図1 シェッピー島とメドウェイ病院およびロンドンの位置関係】

 ロンドンからそう遠くない距離にありながら、シェッピー島には、本土とは隔絶した世界が形成されています。住民の多くはこの島の生まれで、一生をこの島で過ごすことが多いそうです。近親婚が少なくなく、科学的証拠があるわけではありませんが、この地域で長く勤める産婦人科医によれば、奇形児や先天異常を持って生まれる子、知的障害を抱える子が比較的高頻度で見られるそうです。

 シェッピー島の住民が本土とあまり交流を持たないのは、交通の便の悪さも影響しています。2006年7月に自動車専用の大きな橋が架かるまで、本土と島をつなぐ交通手段は小さな跳ね橋のある片側一車線の道路だけでした(写真1)。

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【写真1 シェッピー島と本土をつなぐ跳ね橋、Kingsferry bridge。下を貨物船が通過し、それを橋上で待つ自動車が長蛇の列をなしています(写真では分かりにくいですが、道路の奥には線路が並走)。この長蛇の列に患者を緊急搬送中の救急車が巻き込まれたら…。想像するだけでゾッとします。】

 私が働いていた当時はまだ自動車専用橋が開通しておらず、本土との全ての交通は小さな跳ね橋によらざるを得なかったのです。かつてはフェリーもあったようですが、1990年代に廃止となりました。

 跳ね橋ですから、船が航行するときは上がってしまい、その間の20〜30分は全ての陸上交通(徒歩、自動車、鉄道)が遮断されてしまいます(写真1)。島内に救命救急センターや出産病棟を持つ病院はありません。したがって、新しい橋が架けられるまでは、前述のような悲劇が時折起こっていたようです。

 島内唯一の病院はシェッピー病院(Sheppey Community Hospital)です(写真2、3)。2002年に開設され、入院ベッドは48床。その多くは高齢者医療に利用されています。産科外来は週に半日、婦人科外来は週に1日だけ、メドウェイ病院の医師が出張して診療を行います。出産や婦人科の手術を行う設備はないので、それらは全てメドウェイ病院に移動して行われます。

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【写真2 シェッピー病院の外観。】

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【写真3 シェッピー病院婦人科外来診察室の窓からの眺め。冬のイギリスを象徴する灰色の空です。周辺には荒野が広がり、民家が点在しているのみで、とても寂しい印象を受けました。(2005年12月撮影)】

 私は週に半日(火曜日の午前)、指導医と共にシェッピー病院に出張して婦人科外来を担当していました(写真4)。院内はいつも閑散としており、婦人科外来も午前9時から12時までの間に5〜6人の患者がいれば多い方でした。

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【写真4 シェッピー病院の婦人科外来で勤務する筆者。】

 2001年の国勢調査によればシェッピー島の人口の98%は白人となっていて、私が診た患者も全員が白人女性でした。ちなみに、イギリスにおける「人種のるつぼ」ロンドンだと、白人比率は約70%。ロンドン南部の移民が多い地域の病院で診療していると、白人の患者と白人以外の患者の比率は半々くらいだったと記憶しています。

 シェッピー病院で私が主として担当したのは、メドウェイ病院で受けた婦人科手術(尿失禁の治療、癌治療目的の子宮摘出術など)後の経過観察でした。患者の多くは高齢女性で、自力ではメドウェイ病院まで行くことができない人がほとんど。自分で車を運転して本土まで行ける比較的若い患者は、検査・治療設備の整ったメドウェイ病院の外来で診察を受けるのが通常でしたが、高齢になると、島外に自力で出るのはほぼ不可能になってしまうそうです。

 シェッピー病院ではちょっとした血液検査や病理検査なども院内対応できず、全てを本土のラボに送らなければなりませんでした。メドウェイ病院なら5分で結果が分かる検査でも1週間はかかるなんてことが当たり前で、あまりの不便さにストレスがたまりました。

「島の外へは出ない」。手術を拒む70歳女性の覚悟
 ある日の外来で、子宮脱と尿失禁を主訴とする70歳女性を診察しました。問診で旅行歴について質問すると、「生まれてから一度も島を出たことがない」と自慢げに語ります。子宮脱は研修医の私にも一見して分かるほどで、すぐに指導医に報告したところ、「経腟ペッサリーを挿入して保存的にしばらく様子を見る方法と、手術で修復する方法があるから、患者さんに選んでもらいなさい」との指示でした。

 2つの方法を提示すると、女性は少し考えて、こう答えました。「手術を受けるとなると、本土のメドウェイ病院まで行かなければならないでしょう? でも、そうすると私は75歳の夫を自宅に独り置いていくことになります。夫は脳梗塞の後遺症で右半身不随なので、私が毎日介護しています。夫を残して本土に行き、手術を受けるなんてことはとてもできません。なので、ペッサリーを挿入する治療を望みます」

 私はすかさず、「ご主人の介護については、無料でソーシャルサービスをアレンジいたします。入院から退院までの期間もきちんと介護が受けられますので、安心して手術を受けていただけます」と説明しました。しかし、「夫は私でないと駄目だから」と言い切り、かたくなに手術を拒否しました。

 結局、その日のうちに指導医が外来処置室でペッサリー挿入処置を行い、女性は帰宅していきました。1カ月後のフォローアップ外来で確認すると処置は功を奏しており、やがて子宮脱は軽快しましたが、その後も尿失禁は続きました。「手術はどうしても避けたい」という気持ちはやはり不変だったので、当面の間は内服治療で様子を見ることになりました。

 さらに1カ月後のフォローアップでは、尿失禁は良くも悪くもなっていませんでした。「本土に行って手術するよりは、尿失禁と何とか付き合いつつ、ずっと夫のそばにいてあげたい」という本人の強い希望は変わらず、私が勤務している間は保存的治療が続けられました(その後どうなったのかは、今となっては知る由もありません)。

 「誰でも“無料”で医療が受けられる」医療先進国のイギリスであっても、このような医療過疎の地域は存在します。それも、首都ロンドンからたった46kmの場所に!

 限られた医療費で全患者の診療を“無料”で続けるためには、医療サービスの合理的な運営が必要となります。苦しい財政状況において、人口が少ない小さな島に常勤医師を置き、手術や入院治療ができる病院を開設・維持することは、残念ながら不可能です。専門的な治療は本土にある地域基幹病院で受けてもらうしかないのですが、島民にとっては、島と本土を分かつ海が物理的かつ精神的なバリアとなります。本土での治療を拒む例は他にも少なくありませんでした。

 大きな橋ができて交通の便が良くなったことを契機に、島民の医療アクセスが改善したことを祈るばかりです。
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