2012年09月29日

“臨終の作法” in USA

河合達郎
マサチューセッツ総合病院移植外科
ハ―バード大学医学部外科准教授

 「ご臨終です」。日本にいるときは当たり前のように、患者の死に際してこう宣告してきました。ところが、アメリカで患者の死に直面するようになると、「はて、死亡宣告は英語でどう言うのか?」「そもそも、臨終の作法はどうあるべきか?」など、最初は戸惑うことばかりでした。

 アメリカ人、さらにはヨーロッパ出身の同僚などに聞いて回っても、「臨終」という言葉に相当する表現は欧米にはないとのこと。さすがに“He died”とか“He is deceased”というのは直接的すぎて使われず、普通は“He passed away”とか“His heart stopped” と言うのが一般的なようです。

「ご臨終」は日本独特?
 考えてみれば、「臨終」という言葉には特別な意味合いがあるように思えます。単に死を第三者的に扱うのではなく、“終わりに臨む”と、死を主体的にとらえているところに何か救われる思いがします。いったい日本ではいつの頃から、人の死の宣告に「臨終」という言葉を使うようになったのでしょうか。源信が著した『往生要集』の中に、臨終の行儀を説く章があるということですから、平安時代の頃には使っていたのかもしれません。

 それでは、「臨終」の語源があると思われる中国ではどうでしょう。意外なことに、中国では人の死に際して欧米と同じように「死亡」または「去世」を使い、「臨終」という言葉を死亡宣告としては使うことはないようです。中国において「臨終」は、「まだ生きているが、死が差し迫っている状態」とされており、日本でいう「危篤」に近い表現だと思われます 。

 確かに、「臨終」という言葉では、いったい(生命が)終わったのか、終わっていないのかがはっきりしません。(良かれ悪しかれ)何でも曖昧にすることの得意な、いかにも日本人的な表現と言えるかもしれません。

 ところが、面白いことに、お隣の韓国の死亡宣告は日本とほとんど同じような感じで、「イムジョン(臨終)ハショスムニダ(されました)」というようになされています。韓国では、「臨終」という言葉はとてもフォーマルで丁寧に聞こえる表現としてとらえられています。「臨終」という言葉が中国から韓国を通じて日本に伝えられるまでの間に意味合いが微妙に変化していったのか、あるいは日本で醸成された「臨終」という概念が韓国に逆輸入されたのかもしれません。

「死ぬときはアメリカ」も悪くない
 アメリカでも、死亡宣告の後は黙祷(moment of silence)を捧げて、家族にお悔やみを述べるのが普通です。ちなみに、お悔やみは“I am sorry about 〜”と表現するのが一般的ですが、この場合は謝罪の意味は含まれません。いつかNHKのニュースで、アメリカ人が広島の平和記念資料館でインタビューされているのを見たことがありますが、 “I am sorry…”と言ったのを「(原爆を落として)ごめんなさい」というような謝罪のニュアンスで字幕にしていました。しかし、あれは単にお悔やみを言っていただけだと思います。

 死亡宣告の表現は多少違いますが、アメリカにおける臨終の作法が日本と比べて大きく異なるということはありません。 ただ、アメリカ人は信心深い人が多いので、死ぬ前から病棟で牧師がかかわってくることもよくあります。アメリカの病院は、たいてい院内にチャペルがあり、あらゆる宗派の牧師または僧侶に必要に応じて来てもらうことができます。 看護師たちも臨床的に有能でありながら非常に親身で、私も「死ぬときはアメリカでも悪くないな」と思うほどです 。

緊迫した場面でも広がる“黙祷の輪”
 そんなアメリカでも、家族が不在で、多数の医師がかかわり、かつ医師に余裕のないときなどは、臨終の作法など顧みられない場面があります。 その一つの例は、入院患者が急変して蘇生治療が施されるときです。

 アメリカの大きな病院では、患者の急変に対する蘇生治療は主治医チームがするのではなく、麻酔科・内科の合同の蘇生専門チームが取り仕切ります。 初期の蘇生こそ病棟の主治医が始めますが、看護師がすぐに緊急のコールをするので、たいていは5分以内に蘇生チームが駆けつけます。それからもさらに病院中から蘇生に関係する医師たちが集まってくるので、狭い病室が20人以上の医師であふれる光景も珍しくありません。ところが、努力の甲斐なく蘇生できずに治療が中止されると、蘇生チームは死亡宣告もそこそこに、いっせいに引き上げてしまいます。

 しかし、最近では、そんな緊迫した場面にあっても個人の死に対する敬意を形にしようとする努力が見られるようになってきました。もう数カ月前になりますが、私が担当する患者が急変したときのことです。午後の回診時は普通の状態で、その急変はまったく予期できませんでした。私が急いで病棟に戻ると、狭い病室は20人以上の蘇生チームの医師でごった返していました。その囲いを押し分けて進み、チームのリーダーに状況の説明を頼むと、蘇生できる見込みはまったくないので「蘇生の中止を決定してくれ」ということでした。私も状況から判断してその方針に同意したので、蘇生は中止されました。

 ところが、この日はそこからが違いました。リーダーが「それではこれから黙祷を捧げます」と言って、蘇生チーム全員が黙祷を始めたのでした。チームの1人は、「天にましますわれらの父よ…」 と、声を出してのお祈りまで始めました。そんなことは初めてでした。おそらく、今まで誰もが考えてはいたことなのでしょうが、1人のリーダーが問題を指摘して、ようやく行動を起こすきっかけとなったのでしょう。

ドライな移植チーフが、ドナーへの黙祷を奨励
 移植ドナーからの臓器摘出時も、様々な病院から来ている見知らぬ外科医たちが協同で手術するわけですから、ついついドナーに対して敬意を払う余裕を失いがちです。しかし、そんな場面でも、医療スタッフの意識に変化が出てきています。

 数カ月前、心臓外科チームと共に摘出手術をまさに始めようというときでした、1人のコーディネーターが「待った!手術を始める前に黙祷してくれ」と叫んで、手術開始を遮りました。そして、手術室にいるスタッフ全員でドナーに対して黙祷を捧げた上で、手術が始まりました。

 私の十数年間の経験で初めてのことだったので、後でそのコーディネーターに事情を聞いてみました。彼によると、最近M病院の移植のチーフが摘出手術前にドナーに対して黙祷を捧げることを提案してから、チームに黙祷を奨励することになったとのことでした。私は、そのM病院のチーフのことをかなりドライな人間だと思っていたのですが、人というのは分からないものです。それとともに、私自身、これまで十数年間もドナーの方々に対する畏敬の念を形にしてこなかったことに恥じ入りました。現在では、ドナー手術を始める前の黙祷は、少なくともニューイングランド地方では完全に「当たり前のこと」になっています。

 どんな異国にあっても、死にゆく人に畏敬の念をもって接してさえいれば、特別な言葉など要りません。ただ、その気持ちを形にしてこそ臨終の作法が成るということではないでしょうか。
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