2012年10月10日

医学研究からビジネスを立ち上げる方法

市瀬 史
ハーバード大学医学部アソシエイト・プロフェッサー
マサチューセッツ総合病院麻酔集中治療科・麻酔医

 医学研究に限らず、大学などの教育機関における研究活動は、一般的にはお金になりません。私が勤務しているマサチューセッツ総合病院(MGH)は、アメリカでも最大の医学研究のメッカです。しかし、そんな場所でも、大方の研究者の収入は臨床医に比べて少なくなります。

 研究資金はどれだけ高額を獲ってきても、研究費用と研究スタッフの給与に消えてしまいます。研究者自身の給与を高くし過ぎると研究資金を圧迫し、研究計画の遂行を妨げますから、多額の給与を取るわけにはいかないというジレンマがあります。

 しかし、中には自分の発見した分子や物質、技術で特許を取り、その知的所有権をもとにビジネスを立ち上げ、このジレンマから抜け出すことに成功する人もいます。金儲けの話のように聞こえるかもしれませんが、発明や発見に対して正当な対価が支払われるのは当然のことで、その対価が次なる発明にもつながります。結果的には医療レベルを進歩させることになり、多くの患者が恩恵を受けます。

 世界中で政府の債務が問題になる中、公的研究資金もだんだん当てにできなくなってきました。自分の特許から得た利益でビジネスを立ち上げてお金を集め、次の研究資金をまかなうという、ビジネスモデルならぬ、新しい研究モデルを考えるべき時期に来ているのかもしれません。

 私は、たまたま一酸化窒素(nitric oxide;NO)吸入療法の研究・ビジネスの黎明期に当たる1990年にMGHの麻酔科に臨床留学する機会を得て、現在に至るまで麻酔科スタッフとして臨床・研究の両面で働いてきました。NO吸入療法は低酸素血症で苦しむ多くの新生児の命を救ったと言われています。

 その一方で、 NO吸入療法の特許をもとにNO吸入装置とガスを販売する医療ガス会社が設立され、現在に至るまで利益を生み出すビジネスになっています。今回は、MGHでのNO吸入療法の研究開発を例として、医学研究からビジネスを立ち上げ、命を助ける方法について、裏話を交えてご紹介しようと思います。

病院のバックアップでNO吸入療法の特許を獲得
 NOが生理活性物質であるという発見に対して、1998年のノーベル医学・生理学賞が贈られたことは広く知られています。しかし、生理活性物質として認識される以前は、NOは主に大気汚染物質として研究されていました。NOガスを医療に応用する研究が始まったのは、今から20年ほど前になります。

 1991年、MGHのゼイポール教授(MGHの前麻酔科主任教授、現名誉教授。私のかつてのボス)らは、低濃度のNOを吸入させるとヒツジの肺血圧が選択的に低下することを発見しました[1]。彼らの研究で、NO吸入が体血圧を低下させないこと、肺障害をもたらさないことが確認されました。

 その後の複数のグループによる動物実験や肺疾患患者を対象とした臨床実験、そして3つのプラセボ対照臨床試験の結果、低酸素血症を伴う新生児肺高血圧に対するNO吸入療法は、1999年にアメリカ食品医薬品局(FDA)で、そして2001年には欧州医薬品管理委員会で認可されました。日本での承認はかなり遅れましたが、2008年には薬事承認、そして2010年から保険適用が認められました(商品名アイノフロー吸入用800ppm)。

 さて、話を1991年に戻すと、NO吸入による選択的肺血管拡張作用の発見後、ゼイポール教授たちは、すぐにMGHを通じて用途特許(※注)の申請をします。当時からMGHは知的所有権獲得に非常に熱心でしたから、すぐに外部の特許専門の弁護士を通じて特許を獲得しました。ちなみに、その頃まだMGHの麻酔科レジデント1年生だった私は、残念ながらこの特許には全く関与していません。

 大学に勤める医師・研究者が特許をもとに収入を得る方法は、大きく分けて2つあります。1つは、特許の使用許可をライセンスとして製薬会社などの企業に売り渡すことで、ライセンス契約と呼ばれます。この場合、支払われる特許料(loyalty)を大学と研究者が折半することになります。もう1つは、ベンチャーキャピタルなどから出資を募って、自分で会社を立ち上げることです。この場合、会社の利益のうち、出資者の取り分を払った残りが自分の分になります。

 言うまでもなく、前者の方が後者よりはるかにシンプルですが、ライセンス契約してくれるほどの興味を示す会社を探すのは簡単ではありません。特に製薬分野の場合、治験をするには天文学的なお金がかかります。したがって、成功がよほど確実視されるものでない限り、ライセンス契約をしてくれる企業は出てきません。

 NO吸入の場合は、幸いなことに、British Oxygen社傘下のオメダ(Ohmeda)社が製薬化に興味を示しました。1992年、MGHはオメダ社とNO吸入療法特許のライセンス契約を結びます。オメダ社は1997年頃には純度の高いNOガスを精製するためのケミカルプラントを7000万ドルかけて建設しましたが、その後、ヨーロッパと全世界に幅広い販売ネットワークを持つスウェーデンのAGA社に、NO吸入療法のライセンスを工場ごと二束三文で売却してしまいます。1999年のFDA認可後は、AGA社傘下のINO Therapeutics社がNOビジネスを推進しましたが、AGA社は2000年にドイツのLinde社の傘下に入りました。2007年、INO Therapeutics社は6億7000万ドルでIkaria(イカリアではなく、アイカリアと読む)社に売却され、現在に至ります。

特許が切れてからこそが発明者の醍醐味?
 MGHでは、研究者が特許を取れそうな発見・発明をすると、病院の知的所有権専門の部門が特許申請の手続きをやってくれます。特許専門の外部の弁護士を雇う費用も肩代わりしてくれますが、これにはMGHが払う場合と、その特許をライセンス契約する外部の会社に払わせる場合があります。

 MGHの経営母体であるPartners Healthcareの知的所有権部門(Research Venture and Licensing)は、68人の専従職員からなる大所帯で、年間に500件前後の発明・発見報告書 (invention disclosure) を受理し、250件前後の特許を実際に申請しています。ちなみに、Partners Healthcare全体での2011年度の特許およびライセンス収入の総額は1.1億ドルに上るそうです(詳しくはhttp://www.rvl.partners.org/参照)。アメリカの大学病院が、非営利団体にもかかわらず、知的所有権の獲得に非常に熱心な理由がお分かりいただけるかと思います。

 MGHでは、入職時の契約で、何らかの医学的な発見をして知的所有権を獲得した場合は、その利益を病院と発見者の間で折半することになっています。発見者はさらに半分を自分の所属する診療科に“献上”することになっていて、発見者自身の手元に残るのは特許収入の25%だそうです。発見者が何人もいる場合は、さらに頭割りになります。

 ゼイポール教授は、自分の取り分のうち、さらに半分を自分のラボの研究費として使っていました。この特許料は、ゼイポール研究室ばかりでなく、その後のMGH麻酔科全体の様々な研究活動を支えてきました。私を含む数多くの研究者が大変な恩恵を被り、それがさらなる発見・発明につながっています。

 このNO吸入療法の特許は、当初いろいろな意味で物議を醸しました。イギリスの研究者との間で特許紛争も起こり、その裁判のために多くの時間と金が費やされたとも聞いています。当時ゼイポール研究室にいた私にも、裁判での証拠となる古いラボノートを探してくれという依頼が弁護士から来たのを覚えています。

 また、自然界に存在し、生体内でも産生される分子であるNOを吸入することが本当に特許の対象になるかどうかに関しては、現在に至るまで論争が続いています。これは、最近話題になった、乳癌の原因遺伝子(BRCA)を特許申請して裁判で敗れた会社の事件にもつながります。すなわち、人体から単離したDNA断片の塩基配列を特許として認めてよいのか、という問題です[2]。

 NOの特許が正当かどうかは分かりませんが、そうこうしているうちに、NO吸入療法特許の期限(15年)は近づいています。2013年にはアメリカでの特許が切れます。承認が遅れた欧州や日本では期限切れは数年先だそうですが、早晩その日はやって来ます。しかし、特許が切れるのは悪いことばかりではありません。

 現在、アメリカでは毎年3万人の肺高血圧症患者がNO吸入療法による治療を受けています。FDAの認可から現在までに36万人の患者がNO吸入療法の恩恵を受けたと推定されています。今後、特許が切れて誰でも(どのガス会社でも)医療用NOガスの製造・販売に参入できるようになれば、値段も格段に下がって、もっといろいろな医療分野に広がる可能性があります。そうなれば、命が救われる患者も増えます。

 特許料こそ入らなくなりますが、発明者にとって、発明の最大の醍醐味は特許が切れてからなのかもしれません。

※注 用途特許(用法特許):既存の化合物に未知の属性を発見して、それがある新しい用途に用いることが可能であることが分かったとき、その用途を対象として与えられる特許。日本においても認められている。ただし、新規性があったとしても、進歩性(既存の化合物の出願時における技術水準から予想できる範囲を超えた進歩)がなければならない。

【References】
1)Frostell C,et al:Inhaled nitric oxide.A selective pulmonary vasodilator reversing hypoxic pulmonary vasoconstriction.Circulation.1991 Jun;83(6):2038-47.
2)吉田哲:バイオ産業の発展に単離DNAの特許保護は必要か?―米国で議論される遺伝子特許のあり方,日経BP知財Awareness,2011.
http://chizai.nikkeibp.co.jp/chizai/etc/20110318_yoshida1.html
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