2012年10月18日

頼れるのは自分だけ、“空飛ぶ医者”のとても長い旅

ベトナム発、医療航空搬送体験記

寺川偉温
ファミリー・メディカル・プラクティス・ホーチミン内科医

 “evacuation”という単語をご存知ですか? 日本語に訳すと「避難」「退避」といった意味になりますが、私はこの単語の意味をベトナムに来てから知りました。

 ホーチミンのクリニックでの勤務初日、オリエンテーションの際に、「もし日本人の患者でevacuationがあったら、あなたに行ってもらうから」と言われたのです。「エバキュエーション?」と思いましたが、どうやら話を聞いていると患者を飛行機に乗せて搬送することを指すようでした。クリニックの中で働くだけだと思っていたので、びっくりして「それって、まさか自分が空の上でお医者さんをするってこと?」と聞くと、「もちろん!」という返事でした。

飛行機内に臨時の「病室」、とんでもない費用が…
 正確に言えば、 単に“evacuation”ならば「危険地帯や紛争地域からの退避」ということになり、「医療搬送」は“medical evacuation”と表現されます。似たような言葉に“repatriation”というのがありますが、こちらは「本国に送還する」という意味合いが強くなります。

 普段はあまり気にしないかもしれませんが、日本で購入する海外旅行保険では、必ず緊急医療搬送費用をカバーする契約になっています。海外滞在中に大きなけがや事故に遭ってしまい、医師や看護師の付き添いを受けて日本まで帰国することになった場合、その費用を保険会社が持ってくれるのです。言うまでもなく、この医療搬送には非常にお金がかかります。

 自力歩行ができ、座位の保持が可能な患者ならまだしも、多くの重症患者はベッドから起き上がることさえできない状態です。飛行機の中にはベッドを置けるようなスペースがないので、乗客用の座席を2〜3列分取り払って専用のストレッチャーを設置しなければなりません(こういった事前の打ち合わせは病院の専門スタッフが担当します)。

 これだけで9席分程度のチケット代金。さらに医師や看護師の分の席も確保し、酸素やバイタルサインのモニタ、点滴などを持ち込みますから、かなりの費用になります。もし、一般の旅客機に乗れずチャーター機を使っての搬送となれば、保険でカバーされるにせよ、さらに莫大な金額になります。ですから私は、旅行中の患者で海外旅行保険に入っていない方を見つけたら、「入ったほうがいいですよ」とお勧めしています。

何が起こるか分からない、悪化しても引き返せない
 さて、私の“空飛ぶお医者さんデビュー”ですが、最初の患者は旅行で当地を訪れていた日本人の60歳代女性でした。食事が摂れない、無理に食べても吐いてしまうということで来院しました。私は当初、ただの急性胃腸炎だろうと軽く考えていたのですが、下痢症状がなく、むしろ便が出ないとのことで単純X線写真を撮ったところ、ニボーが認められるではないですか。

 腸閉塞です。これはまずいと思いました。前回も少し触れましたが、腸閉塞があれば原則として飛行機には乗れません。

 腹部CTを撮ってみると、どうやら癒着性ではなく大腸に何らかの狭窄があり(おそらく腫瘍)、それが閉塞を起こしていると判明しました。ますますまずい…。癒着性であれば絶食と減圧で軽快が望めますが、器質性の狭窄では期待できません。時間がたてば狭窄が進行する可能性すらあります。

 検討の末、リスクは伴いますが、私が付き添った上で直ちに緊急医療搬送で日本に帰国させることになりました。患者は受診当日のうちに、NGチューブを挿入したまま日本へ飛ぶことになったのです。幸いなことに、閉塞症状は機内でもそれほどひどくはならず、NGチューブから何度か吸引しただけで症状が落ち着き、無事に到着することができました。

 私としても初めての医療搬送で何が起こるのか分からず緊張しましたし、機内では自分以外に頼れる人もいないので大変不安でした。仮に患者が悪化しても、「じゃあ、いったん引き返しましょう」とは言えません。よほどの緊急事態であればできないこともないのですが、航空会社としては最も避けたい事態ですし、最寄りの空港まで1時間以上かかることもあります。

 「楽しい」とはとても言えない空の旅でした。

大動脈解離の患者の搬送、とても長かった90分
 その後も何度か飛行機での医療搬送を経験しました。年間で日本へは数回、タイやシンガポールへも数回飛んでいると思います。中でも一番緊張したのは、大動脈解離を起こしたノルウェー人の40歳代男性の搬送でした。Stanford Aの大動脈解離で、弓部から腎動脈付近まで広範囲に裂けていました。ただ、本当に幸運なことに、超急性期を過ぎてもほぼ合併症がない状態でした。緊急手術が必要なのは間違いありませんでしたが、それをベトナムで受けるのか、どこか別の国がいいのか、悩ましいところでした。

 ベトナムでも手術はできるということだったのですが、患者の強い希望により、リスクを承知の上でシンガポールへの医療搬送となりました。たった1時間半のフライトでしたが、早く着いてくれと祈るような気持ちでした。到着して現地の医療チームが機内まで患者を迎えに来てくれたときは「やった!たどり着いた!」という気分でした。伝え聞いた話では、その患者は当日のうちに手術を成功裏に終え、後に至るまで合併症もなく、母国に戻って行ったとのことでした。

 もちろん、搬送する患者の全てが一触即発ばかりというわけではありません。少し状態が落ち着いている患者であれば、本人やその家族と一緒に、普段の診療時間内では話さないような会話を交わしていたりします。そして無事に目的地へ到着したときは、共に一つの試練を乗り越えた同志のように喜びを分かち合うのです。

 最初に“evacuation”と聞いたときは、びっくりしながらも「なんだかいろいろなところへ飛行機で行けて楽しいかも」なんて気がしていました。しかし、実際には想像以上にプレッシャーがかかる厳しい仕事なのです。
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