2012年10月22日

医師たる者、「労働者階級の言葉」を使うべからず

でも、分からなければ診療できない

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター

 あるとき、交通事故で運ばれて来た50歳の白人男性の担当になりました。この男性はバスの運転手でした。シートベルトをせずに仕事でバスを運転していたところ、複数台による玉突き事故に巻き込まれたとのことでした。

 “Do you have any pain?”という私の質問に対する答えは、「アーイ、ドック、ミゴッパインアールオゥヴァミネックエンベック」。一度聞いただけではよく分からず、再度繰り返してもらいましたが、それでも分かりません。

 さらに聞き返したところ、患者はいらだちを隠そうともせず、「パイン・イン・ミ・ネック・エン・ベック!」と声を荒げながら、首と背中を両手でたたきました。なるほど、“Yes doctor,I've got pain all over my neck and back.”と言っていたのかと、そこでようやく分かりました。

労働者階級の患者が話す英語は聞き取りにくい
 私が研修医として勤務していたキングス・カレッジ・ロンドンは、ロンドン南部の町デンマーク・ヒル(Denmark Hill)という場所にありました。ロンドンの中でも特に社会経済的地位(socioeconomic status;SES)が低い人たちが多く住んでいる地域でした。これらの人々は、イギリスでは俗に「労働者階級」と呼ばれています。具体的には、低賃金の肉体労働に従事する人々のことで、例えば工場や工事現場の日雇い作業員、バスやトラックの運転手、清掃作業員などを指します。

 最近の統計では、デンマーク・ヒルを含むサザック(Southwark)地区には26万9000人の住民がいますが[1]、失業率は約12%に上ります。これはロンドン市の32地区中ワースト4位で、全英の失業率約8%の1.5倍 [2]です(2009〜2011年のデータ)。職に就いている人の約20%は“London living wage”(*注)以下の賃金しか得ていません[3]。そして、この地区の就労可能な成人(16歳以上65歳以下)の約13%は、何らかの慢性疾患を抱えています[4]。

 全国規模のデータによれば、低所得者層は全国平均以上の年収を得ている人々に比べて病気になりやすいことが明らかになっています(表1)[5]。その傾向を反映するように、私が外科および整形外科の初期研修医として担当した多くの患者は、SESの低い人たちでした。「誰でも無料で医療が受けられるNHS(national health service)」で働く医師ならではの経験でしたが、そのとき特に困ったことが一つありました。冒頭のバス運転手のように、彼らの話す英語が独特のアクセントを持っていて、非常に聞き取りにくいものだったということです。

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【表1 イギリスにおける貧困と健康の相関に関する統計(※クリックして拡大)】

クイーンズ・イングリッシュとコックニーは別の英語
 有名なミュージカル「マイ・フェア・レディ」の登場人物、イライザ・ドゥーリトルをご存知でしょうか。彼女は、ロンドンのイーストエンド出身の貧しい花売りで、「コックニー」(Cockney)と呼ばれる下町独特の英語を話します。何となく下品な感じのする、癖が強くて聞き取りにくい、いわゆる「労働者階級の英語」です。

 コックニーは、格調高いクイーンズ・イングリッシュと比べると、発音も文法も語彙も全く異なる“別言語”と言うことができるでしょう。表2にいくつかの例を示しました。カタカナ表記で不正確な部分はありますが、イメージは何となく分かってもらえると思います。

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【表2 クイーンズ・イングリッシュとコックニーの違いの例(カタカナ表記にしたので不正確な部分もあります)(※クリックして拡大)】

 デンマーク・ヒルのようなロンドン南部は、コックニー発祥の地であるイーストエンドとは異なりますが、それでも「労働者階級の英語」というのはほぼ同じようなものと言って差し支えないでしょう。患者がこのような英語の話し手だった場合、英語ネイティブの医師であっても、問診で病歴を取るのは大変です。特に、医学校を卒業したての頃は、発音にも語彙にも不慣れだったため、何度聞き返しても話が分からないことがよくありました。

 冒頭の患者は、事故の状況に鑑みても、むち打ち症の疑いが強い症例だったので、何を訴えているかが逆に理解できたようなところもありましたが、患者の話す英語を2回も聞き返してようやく分かるようでは、よい医師とは言えません。痛みで苦しんでいるのに、それに追い打ちをかけるように、自分の訴えを医師が理解してくれないというのでは、患者はたまったものではないでしょう。

 この経験以来、「労働者階級の英語」の聞き取りに慣れるべく、イーストエンドを舞台にしたテレビドラマ“East Enders”を視聴して、耳を慣らす努力をしました。そして、やがてこの地区の患者の言うこともほぼ一度で全て聞き取れるようになりました。

苦学生のエマは、いかにして「労働者階級の英語」を脱したか
 「労働者階級の英語」という表現を使いましたが、個人がどのようなアクセントの英語を話すかということは、実は育ちよりも生まれで決まることがほとんどです。やはり、自分の両親や親類、友達が話す英語の影響を強く受けるからだと思います。

 キングス・カレッジ・ロンドン医学部の同級生だったエマという女性医師は、サザック地区の出身で労働者階級のシングルマザーの家庭に育ちました。アルバイトをして家計を支えつつ、奨学金を得て高等教育を受け、医学部に合格したという苦労人でした。彼女は成績も抜群で人柄もよく、同級生や指導医の誰からも好かれていましたが、唯一の「欠点」は、話す英語のアクセントが労働者階級のそれだったということです。

 イギリスでは、医師たる者、高い社会的地位に見合った格調高い英語(クイーンズ・イングリッシュまたはオックスブリッジ・イングリッシュ)を話すべきだという暗黙の了解があります。医師に限らず、政治家や弁護士など社会的地位の高い職に就く人は、それにふさわしい英語を話すことが求められます。

 かつてのイギリス首相、「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーは、イギリス北部のリンカーン県で青果店を営む両親のもとに生まれました[6]。そのため、もともとはイギリス北部訛りのある英語を話していたわけですが、英語の発音・発声トレーニングを受けてアクセントを矯正する努力を重ね、政治家としてふさわしい「上流階級のアクセント」を身につけたというのは有名な話です。

 こうした社会的風潮もあり、エマの話す英語は、外科の指導医・アントニー医師にとってはとても許せないものだったようです。医師という職業は、現代イギリス社会においては中流以上〜上流の階級に属します。エマが彼のことを労働者階級アクセントで「アンッオニィー」と呼ぶたび、「私の名前はアン“ト”ニーだ。上司の名前は正しく発音しろ!」と、真顔で叱責していました。

 「そのような品のない英語を使っていては、患者から信頼してもらえないぞ。医師としてプライドを持って、きちんとした英語を意識して使いなさい」。毎日厳しく指導されたため、3カ月間の外科初期研修が終わる頃には、彼女は標準語の「医師としてふさわしい」アクセントで話すようになっていました。

 「英語が苦手だ」という日本人は多いと思いますが、英語を母国語として話すイギリス人でも、必ずしも皆がクイーンズ・イングリッシュをきちんと話せるとは限りません。貧困層になるほど「労働者階級の英語」しか話せない人が多くなりますが、患者の多くを占める彼らと円滑なコミュニケーションを取れなければよい医療は提供できません。医師には「労働者階級の英語」をきちんと理解できるだけの“語学力”が必要なのです。

*注 London living wage ロンドン市が定める「人間らしく生きていくために必要な最低限の賃金」(2011年時点では時給8ポンド30セント)。雇用者はこの基準以上の賃金を支払うように指導されているが、法的拘束力はないため、現実的には基準以下の低賃金労働がなくなることはない。

【References】
1)Guy’s and St Thomas’ Foundation Trust:Equality and equity Health profiles and demographics in Lambeth/Southwark.
http://www.guysandstthomas.nhs.uk/resources/about-us/equality/objectives/local-equality-demographics.pdf
2)Trust for London and New Policy Institute:Unemployment by borough.
http://www.londonspovertyprofile.org.uk/indicators/topics/work-and-worklessness/unemployment-by-borough/
3)Trust for London and New Policy Institute:Low pay.
http://www.londonspovertyprofile.org.uk/indicators/topics/low-pay/
4)Trust for London and New Policy Institute:Adult ill-health by borough.
http://www.londonspovertyprofile.org.uk/indicators/topics/health/adult-ill-health-by-borough/
5)Trust for London and New Policy Institute:Health.
http://www.londonspovertyprofile.org.uk/indicators/topics/health/
6)Wikipedia:Margaret Thatcher.
http://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Thatcher
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