2012年12月04日

病院と医師が貧乏なら、医療訴訟は起こらない?

No money, no malpractice law suit.

日比野誠恵
ミネソタ大学ミネソタ大学病院救急医学部准教授

 アメリカの救急医学界で非常に有名な、グレッグ・ヘンリーという先生がいます。特に救急医学の医療訴訟分野で有名ですが、歯に衣を着せない、ちょっとビートたけしを思わせるような毒舌で、面白い話をすることでも知られています。

そこに金がある限り、医療訴訟はなくならない?
 ヘンリー先生いわく、「極論すれば、病院や医師がお金を持っている限り、不幸なアウトカムが起こったときに、そのお金を求めて弁護士が医療訴訟を起こすことは不可避」。アメリカでは、医療訴訟と言えば民事訴訟のことを指すので、こういうことが言われるのだと思います。逆に、医療過誤の可能性がある場合でも、そこに“悪意”が証明されない限り、アメリカでは刑事事件になることはないとされています。

 ヘンリー先生はつい最近、臨床から引退されたようで、最後のシフトに就いたということがニュースになっていました。もっとも、救急医学の医療訴訟やリスクマネジメント分野の専門家としては今も現役バリバリ。国内外で多くの講演をこなしています。

 ヘンリー先生はもともと神経内科医で、アメリカの救急医学の黎明期に救急医となり、以来30年以上、この国の救急医学の発展に貢献されてきました。1996年にはアメリカ救急医学会(American College of Emergency Physicians;ACEP)の会長に就任し、2002年にはACEPで名誉あるJ.D.Mills Lectureを行いました。

 そのときはエジプトのパピルスに書いてあったという太古の医療の話を持ち出し、大局を見ることの重要性を説いていました。ほかにもシェークスピアの話を取り入れるなど博識で、風刺やウィットを効かせた鋭い指摘で、大変人気のあるスピーカーです。見た目は何となくスター・ウォーズのヨーダに似ていますが…。

幕末には始まっていた、アメリカの医療訴訟
 アメリカの医療訴訟は1970年代の初め頃から始まったという意見があります [1]。しかし、むしろこの頃から「歯止めが効かないような状態になった」と理解するのが妥当なようです。同様の流れは医療分野以外でも強まってきて、1992年には有名な「マクドナルド・コーヒー事件」が起こっています。

 この事件はドライブスルーでホットコーヒーを注文した79歳の女性が、誤って自分の膝にこぼして熱傷を負い、治療費の一部の補償を求めてマクドナルド社を訴えたもの(III度熱傷による皮膚移植を含む多額の治療費がかかったという事情もあったようですが)。結局、同社が60万ドルに及ぶほどの賠償金を支払ったと言われています。また、ハンバーガーの食べ過ぎで病的肥満になった人がマクドナルド社を訴え、こちらは敗訴したということもありました。

 アメリカの医療訴訟の歴史を文献[2]で振り返ってみると、始まりは1840年頃のようです。新興国のため、専門職に制約が少なく(専門家にやりやすい状況があり)、特権階級による専門職の独占を嫌う風潮の中で「市場原理に委ねた専門職の形成」(market place professionalism)が起こりました。その影響を最も受けた専門職が医療者(代替医療も含む)と法律関係者だったとのことで、結果として猫も杓子も医療者となり、医療訴訟の対象になっていったそうです。

 当初、高名な医師たちは「訴訟が増えることで悪徳医療者を排除できる」と思ったようですが、実際は逆で、高名な、すなわちお金のありそうな医師が医療訴訟の対象になることが多かったようです。そこから今に至るまで、状況は徐々にエスカレートを続けているといえるでしょう。医療訴訟が盛んになった背景として、医療側の事情で指摘されるのは、(1)医療の進歩、(2)医療の標準化、(3)医療訴訟保険の普及。法曹側の事情で指摘されるのは、(4)成功報酬、(5)一般市民陪審員、(6)民事上の不法行為(tort)です。

訴訟の抑制に有効だったのは、賠償金額の上限設定…
 この国の救急医の約半数は、そのキャリアにおいて一度は医療訴訟に関与することになるという統計があります[3、4]。つい最近、医師のバーンアウト率を調査した文献[5]もありましたが、救急医は残念ながらダントツで一番ということで、医療訴訟が少なくともその遠因になっていることは容易に想像できます。

 日本で言うところの「モンスターペイシェント」に、患者満足度や提訴といった“錦の御旗”を振り回されて不要な検査をすることになったり、他科の医師からおそらくは医療訴訟防止の目的で患者を送られる。定量的に把握することは難しいものの、こうした救急部の境遇は、医療訴訟のリスクとも絡み合って医療費高騰の大きな要因の一つとも考えられています[6]。残念ながら、アメリカの医療訴訟はコストがかかり、必ずしも合理的ではありません(医学的にも経済的にも)。

 一方で、ヘンリー先生をはじめとするACEPの先生方や、救急医療領域で著名なメディアである「EMERGENCY PHYSICIANS MONTHLY」のマーク・プラスター氏により、非常識な医療訴訟を防ごうという草の根の活動も行われています。ただ、今までで一番有効だったのはどうやら、州法において賠償金額に上限が設けられたこと。この結果、カリフォルニア州などでは訴訟の件数も医師の医療訴訟保険のプレミアム(掛金)も下がったようです。

 日本では法律家の絶対数が少ないこともあり、アメリカのようなことにはならないと思いますが、今後も注視が必要でしょう。アメリカでは、医療訴訟が医療過誤の防止のためにならないことが認識されてきている[7]のと同時に、何らかの医療賠償制度の確立が検討されていることは明るい材料です。とはいえ、残念ながら医療訴訟はあまりにも大きな“ビジネス”になってしまっているので、どこまで改革できるか難しいようですが…。

【References】
1)Malcolm Gladwell:Ouliers:The Story of Success,Penguin,2009.
2)Mohr JC:American medical malpractice litigation in historical perspective.JAMA.2000 Apr 5;283(13):1731-7.
3)Jonathan Glauser:Malpractice in Emergency Medicine:Yesterday and Today.Emergency Medicine News.2010 Nov;32(11):24.
4)Jena AB,et al:Malpractice risk according to physician specialty.N Engl J Med.2011 Aug 18;365(7):629-36.
5)Shanafelt TD,et al:Burnout and Satisfaction With Work-Life Balance Among US Physicians Relative to the General US Population.Arch Intern Med.2012 Aug 20:1-9.
6)Loughlin KR:Medical malpractice:the good,the bad,and the ugly.Urol Clin of North Am.2009 Feb;36(1):101-10.
7)Gostin L:A public health approach to reducing error1:medical malpractice as a barrier.JAMA.2000 Apr 5;283(13):1742-3.
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