2012年12月13日

医療通訳は税金の無駄遣い?

林 大地
ボストン大学放射線科リサーチインストラクター

 「Dr. ハヤシ、次の患者さんは英語を話さないので、息子さんが通訳のため同伴してくれます」と、受付係が笑顔で私に言いました。「新患者」と書かれた患者ファイルには、白紙のカルテがペラッと1枚差し込んであるだけでした。すぐにドアをノックする音がして、黒人の男性2人が部屋に案内されてきました。患者のアブドゥルさん(65歳)と、息子のモハメドさん。2人とも2mはあろうかという大男です。

 お互いに自己紹介をすると、息子さんがカタコトの英語でもって、アブドゥルさんはアフリカのソマリアから合法的な難民として移住してきたばかりで、今回初めてかかりつけ医(general practitioner;GP)の登録をしたこと、本人は英語が全く分からないことを教えてくれました。言葉が通じない上、ソマリアから移住してきたばかりで過去の情報は一切ない高齢者という、難易度のかなり高い患者を目の前にして、私はどこから手をつけていいのか分からず、途方に暮れてしまいました…。

 私が卒業したキングス・カレッジ・ロンドン医学部では、最終学年になると「見習いドクター」(student doctor)として、外科病棟、内科病棟、GPのクリニックでそれぞれ3カ月にわたる実習を行います。今回は、ロンドン南東部の町ルイシャム(Lewisham)にあるクリニックでGP実習をしたときのエピソードをご紹介します。

カタコトの“通訳”で、問診はできたのか?
 ルイシャムは外国からの移民が多い街で、「人種のるつぼ」という表現が当てはまります。人口約27万人のうち白人の割合は59%に過ぎず、黒人の割合は30%に上ります(図1)[1]。ソマリア人のアブドゥルさんは、図中のBlack Africanに当たります。人種構成が多様なため、使われている言語も様々。ルイシャムの住民のうちで母国語として使う人数の多い(英語以外の)言語は、1位から順に、フランス語、ヨルバ語、タミル語、ソマリア語、トルコ語となっています。ちなみに、日本語は48位です [1]。

20130216_hayashi.gif
【図1 ルイシャム地区の大まかな人種別人口構成比(2010年)(Lewisham’s Joint Strategic Needs Assessment:Ethnicity.より引用改変)】

 GPの初診では、患者から特に気になる症状などの訴えがない場合は、過去の病歴を取り、全身を一通りくまなく診察します。また、血圧、BMI、血糖値測定、尿・血液検査、チャートを用いた視力検査および音叉を用いた聴力検査を行い、発見できる異常がないかスクリーニングを行います。ソマリアのような開発途上国から来た患者の場合は、結核のスクリーニングもする必要があるので、胸部X線撮影およびツベルクリン反応のテストもします。もし、治療中の疾患があれば、内服している薬剤の詳細を聴取します。

 これがイギリス国内の引っ越しによるGP登録変更ならば、引っ越し前に登録していたGPからカルテを取り寄せることで、たいていの必要な情報は手に入ります。しかし、ソマリアからの難民であるアブドゥルさんの場合、それは不可能です。

 息子さんの通訳による問診を試みましたが、いかんせん息子さんも英語が流暢ではありません。どこまで正確にアブドゥルさんと意思疎通できているか、分からないままでした。現時点で自覚症状はないとのことでしたが、どうやら祖国では高血圧の治療薬を内服していたようです。しかし、薬剤の名前は覚えておらず、移住してからまもなく、処方薬も底を突いてしまったそうです。

息子の前では言えなかった、性病の既往
 一通りの診察が終わったところで、私の指導医であるアーヴィン先生が診察室に入ってきました。診察の内容を報告し、「言葉の壁のため十分に問診できたか心許ない」と伝えたところ、アーヴィン先生は笑顔で私とモハメドさんに言いました。「それでは、次回の診察時にはソマリア語の電話通訳を頼んでおきましょう。それから、息子さんの前では話しにくいこともあるでしょうから、アブドゥルさん一人で診察を受けてください」。

 翌週、アブドゥルさんが再びクリニックにやってきました。診察時間に合わせ、あらかじめ電話通訳を予約しておいたので、今回はとてもスムーズに会話が進みました。通訳を介して再度詳しく過去の病歴を聞くと、20歳代で性病にかかったことがあると教えてくれました。前回の診察では、息子が同席していたため言い出せなかったようです。

 スクリーニング検査の結果、唯一の異常所見は前回と今回の血圧検査の結果が160/90mmHgおよび164/98mmHgと明らかに高かったことくらいでした。アーヴィン先生と相談の上、降圧薬を処方し、通訳を介して内服の仕方を教え、高血圧を改善するための生活指導を行い、1カ月後のフォローアップを予約して、診療は無事に終わりました。通訳サービスは医療者にとっても患者にとっても、とてもありがたいものだと実感しました。

1日700万円を超える医療通訳・翻訳サービスのコスト
 「誰もが無料で受けられる」ナショナル・ヘルス・サービス(national health service;NHS)では、診察時の医療通訳サービスの利用、パンフレットなど出版物の外国語版の入手を、患者は無料でできます。しかし、通訳者も翻訳者もプロの仕事をしているわけですから、当然ながら報酬が発生します。この費用はNHSの予算(=国民の税金)から支払われるのですが、最近の調査で、この費用が多額すぎてNHSの財政を圧迫しているとの指摘がなされました。

 2012年2月に発表されたデータ[2]によると、2011年度にイギリス全土のNHSで2330万ポンド(1ポンド129円の換算で約30億円)にも上ります。1日当たりだと、5万9000ポンド、約760万円に相当します。また、人種のるつぼであるロンドンで、全体の費用の31%を占めています。2008年度から2010年度までの期間(3年間)における通訳・翻訳関係の支出は計6440万ポンド(約83億円)だったことに鑑みると、支出は増加傾向にあることが分かります。

 より細かく見ていくと、ロンドン市内でも特に移民の多い南東地区(キングス・カレッジ・ロンドンの関連病院がある地域)だけで同期間に250万ポンド(約3億2000万円)の支出がありました。250万ポンドあれば、71人の腎機能不全患者が血液透析治療を1年間受けることができます(1人当たり年間3万5000ポンドとして計算[3]。)

 英語を話さない患者にも手厚いケアを提供するというNHSの精神は、誰もが立派だと思うところでしょう。しかし、現実を直視すると、ただでさえ医療費が不足している中、これだけ多額の税金を「英語を話さない移民患者たち」だけのために使っていることは、ネイティブのイギリス人にとって不利益であるという意見[2]もあるようです。これに対し、「言語の壁が医療の妨げになることはNHSの理念に反するから、今後も通訳・翻訳サービスにはどんどんお金をかけるべき」という意見[4]は当然あります。

 その一方で、移民患者の自立を促すべきとする意見[5]もあります。「英語を使わなくても医療サービスが受けられるという安心感が逆効果となって、英語を真剣に学ぼうとしない移民患者は少なくない。この国でイギリス人として長期的に暮らしていく上で英語は必要不可欠な言語だから、過度に手厚い通訳・翻訳サービスを提供するのではなく、英語が第一言語でない患者にも分かってもらえるような簡単な英語表現を用いて、英語でコミュケーションを図ることが患者のためにもなる。NHSの財政逼迫を軽減することにもつながる」というものです。

 現場で働く医師の立場からは、もちろん通訳・翻訳サービスがあった方が助かるし、患者も意見は同じでしょう。ソマリアから移住してきたばかりの65歳のアブドゥルさんに、いきなり「英語で会話します」と言っても無理な相談です。しかし、必要とする患者すべてに通訳・翻訳サービスを無料で提供するのは、財政的に難しくなってきているのも事実。NHSの存在意義そのものに疑問を投げかけるような、この問題にどう対応していくのか、イギリス政府は難しい舵取りを迫られることになりそうです。

【References】
1)Lewisham’s Joint Strategic Needs Assessment:Ethnicity.
http://www.lewishamjsna.org.uk/a-profile-of-lewisham/social-and-environmental-context/ethnicity
2)Dr Samantha Gan:Lost in translation,2020health.org,2012.
http://www.2020health.org/2020health/Publication-2012/Professional-Development/Translation-Services.html
3)NHS Blood and Transplant:Cost-effectiveness of transplantation,2009.
http://www.organdonation.nhs.uk/ukt/newsroom/fact_sheets/cost_effectiveness_of_transplantation.asp
4)Jones D:Should the NHS curb spending on translation services?.BMJ. 2007 Feb 24,334(7590):399.
5)Adams K:Should the NHS curb spending on translation services?.BMJ. 2007 Feb 24,334(7590):398.
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/62511797
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック